『ICO』『ワンダと巨像』再訪 『人喰いの大鷲トリコ』に願う「15年を埋める力」

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「守れなかった男」の悲壮な決意『ワンダと巨像』

根底にあるテーマは「父性」でありながら、「自分より大切な存在を守ること」をメッセージとした『ICO』とは一線を画し、『ワンダと巨像』は「守れなかった自分より大切な存在」をストーリーラインの軸としている。これはキャラクターの立場を変えることにより、「父性」というテーマを側面から捉える試みであるといえる。主人公「ワンダ」は、すでに死亡した女性「コレ」の魂を蘇らせるために、村に伝わる持ち出し禁止の剣を持ち出す。さらに禁足の地と呼ばれている土地に足を踏み入れ、魔人「ドルミン」に禁忌とされている魂の蘇りを依頼してしまった。まるで規則破りのオンパレードだ。どのような理由はあれ、冒頭の時点で何に変えても守るべき存在だった「コレ」を守れなかったワンダは、客観的な事実だけで見ればすでに「負けている」のだ。ワンダもそれを知っていて、それでもなお認められず、ありとあらゆるタブーを犯してでも、たとえどんなにみっともなくても、可能性が薄くとも、その「負け」を挽回するために「ドルミン」の課した「16体の巨像」を倒すという条件を飲む。すでに負けている男の孤独な戦い。『ICO』の発売から4年後の2005年に発売された『ワンダと巨像』は、イコが示した暖かで力強い「父性」が、ワンダという存在によって「暴走」していくさまを意外なほどにビターに描いている。いうなれば「ヨルダを失ってしまったイコ」の物語だ。

ただ、前作にあたる『ICO』が作家性を前面に打ち出したゲームシステムを構築していたのに対して、『ワンダと巨像』では「ゲーム」的なシステムをより前面に打ち出したものになっている。

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各々の基準による所もあるだろうが、『ワンダと巨像』はオープンワールドゲームである。はてしなく広がる平原と、それに連なる川や橋、渓谷。愛馬アグロと共に野山を駆け回り、景観を眺めているだけでも充分な楽しさがある。だが目的地は常に一つ、剣をかざした時に発生する光の方向の先にいる「巨像」の元である。ゲームの世界には16体の『巨像』が存在しているが、倒す順番は「ドルミン」が指定するため、向かう場所は常に確定している。第一の巨像を倒せば自動的に最初の神殿に戻され、次の巨像を指定される。それを16回繰り返せばゲームクリアとなるという単純明快なルール。しかし、このゲームの本質は巨像との戦闘にあり、この緊張感と臨場感溢れる戦闘こそ『ワンダと巨像』のほぼすべてといってよいだろう。

『ICO』では「自分のライフゲージ」を「AIで動く少女」に置換することによって「物語」への強い感情移入を促した。この「ゲームの約束事を別のものに置き換える」という演出方式は、『ワンダと巨像』においては「ステージのパズルギミック」を「巨像との戦闘」に置換されている。それによって『ワンダと巨像』は「ゲーム体験」への強い没入間を生み出すことに成功しており、むしろゲームシステムの肝はその一点に尽きるといえる。16体の巨像一体一体との戦いを一つ一つのステージと捉えれば分かりやすい。

たとえば、序盤に出てくる巨像は足の裏を弓で攻撃すると倒れ、その隙につかまる場所を探して巨像に上り、急所を剣で攻撃することで倒すことができる。あるいは鎧をまとった巨像は、ある方法で松明を作り出し、巨像が火を怖がる性質を利用して崖際まで追い詰め転落させることで倒すことができる。どの仕掛けも、一回分かってしまえばさほど難しい段取りではないが、なにせこのゲームにはヒントらしいヒントがない。あまりにも時間がかかっていると、どこからともなく「ドルミン」の声でヒントらしいことを教えてくれるのだが、それさえさほど親切な内容とはいえない。仕掛けを考え、解く。解くまではどうしようもないが、一回分かってしまえば難易度は飛躍的に下がる。それは『ICO』で崩れかかった橋を崩して道を作るためにシャンデリアを落とし、そこに残った火を武器である棒につけ、橋の支柱に置いた爆弾に火をつけて爆発させるというステージギミックとしてのパズルと何も変わりはない。しかし、そこにアクション性が加わるために個々人の技量が加味され、その戦闘に慣れた人とそうでない人で戦闘そのものの「美しさ」と「かかる時間」は大きく変わる。同じクリアするにしても内容はプレイヤーの習熟度によって変わる。製作者サイドもそこは想定しており、クリア後の追加要素として「ハードモード」と「タイムアタック」が用意されており、繰り返しボス戦を楽しむという遊び方をあらかじめ意図しているものと考えられる。

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『ICO』から『ワンダと巨像』への移行で、ゲーム的な面白さに注力したために作家性やメッセージ性が薄れた部分は確かにある。ただ、『ICO』がその全編を通してプレイする人間にヨルダとの繋がりを感じさせる演出を用意していたように、『ワンダと巨像』では主人公ワンダの孤独を浮き彫りにする演出はしっかりと準備されている。不必要なまでに広大なフィールドに生きている人間がたった一人であるという状況は、常にプレイヤーに「孤独」を印象づけ続け、さらに敵が動物ではなく無機質な巨像であることも、同様に一抹の寂しさを感じずにはいられない。セーブ演出に関しても、実は『ICO』も『ワンダと巨像』も同じようにセーブからの次のロードまでは睡眠を取っているという演出を使っているが、『ICO』ではイコとヨルダが二人そろって石のソファに腰掛けないとセーブできず、再開時は同時に優しく目覚めるのに対し、『ワンダと巨像』のワンダは(当たり前だが)一人でいかにも不安げに目覚める。細かいことだが、その細かさの積み重ねがプレイヤーにどのような感情を与えるのかを練りこんで計算した上での叙情的な演出は、しっかりと前作から踏襲している。

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ワンダの孤独で後ろ向きな旅路の終わりに何が待っているのかはここでは伏せるが、エンドシーンにおいて『ICO』と『ワンダと巨像』を繋ぐ重要なシーンがある。それは「頭に生えたツノ」という象徴的な舞台装置を媒介として両作の世界観を見事につないだシーンだ。両作をプレイした人間に、『ICO』と『ワンダと巨像』の世界が同じものであり、時間軸として『ワンダと巨像』が『ICO』のはるか昔であることを連想させる。決して明文化はされないものの、ワンダはイコの遠い先祖であるとプレイヤーはそこで確信するのだ。それは逆に言えば、ワンダが自分の人生では「自分より大切な存在」を守れなかったという呪いを、長い長い時を経て生まれた子孫であるイコは「自分より大切な存在」を守りきることで解く。つまるところ、『ICO』と『ワンダと巨像』はそういう長い一つの物語なのだ。

 

『人喰いの大鷲トリコ』に願うもの

前述したように『人喰いの大鷲トリコ』は『ICO』の発売から15年後の今年発売される。『ワンダと巨像』から『ICO』までの間に横たわると推測される悠久の時間経過に比べればそれこそ瞬きほどの時間だが、人間一人の人生の長さから考えれば決して短い時間ではない。かつてヨルダの手を引きながら彼女を大切に思い、失敗を挽回すべく巨像に必死にくらいつきながら戦ったプレイヤーは、きっともうプレイしたことを懐かしむことが出来るほど大人だ。もしかしたらあるプレイヤーは「守るべき存在」を見つけたかもしれないし、もしかしたらあるプレイヤーは永遠を誓った相手と永遠の決別をせざるを得なかったのかもしれない。もしかしたらあるプレイヤーは自分のことで精一杯で周りをみる余裕もなくなっているのかもしれない。願わくば『人喰いの大鷲トリコ』が「かつて」のプレイヤー達の、その過ぎた歳月により磨耗した心を良くも悪くももう一度、大きく「揺り動かす」作品に仕上がっていて欲しい。それは1人のゲームプレイヤーとしてのエゴだろうが、一つの「ゲーム」にそういう力が宿っていることを信じたいゲームプレイヤーのエゴを、どうか許して欲しい。

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