今や国内据え置きゲーム市場における巨大IPとなった『龍が如く』シリーズ。広域指定暴力団の元構成員を主人公に据えるという、今から思えば実に奇異な設定のゲームの一作目は、2005年12月8日に発売された。そして主人公「桐生一馬」の最終章と銘打たれたナンバリングタイトル最新作『龍が如く6:命の詩』が発売されるのも、ちょうど11年後となる2016年12月8日である。これは偶然ではないだろう。

『龍が如く』の主人公は、広域指定暴力団の元構成員である伝説のヤクザ、“堂島の龍”こと桐生一馬だ。シリーズを通して主役を務める桐生は、暴力と金と陰謀の世界で抗争に巻き込まれながらも、義理や守るべきもの、漢の矜持のために戦っていく。かつてのヤクザ映画の任侠ものを現代に蘇らせたような独特なストーリーは、本作の大きな特徴だ。だがここまで認知度の高いタイトルになった理由には、多くのプレイヤーを魅了する任侠の世界と共に、「シリーズ作品を常に出し続ける」制作サイドの姿勢が挙げられる。ナンバリングタイトルだけで「0」から「6」まで7作、時代や設定を大きく変えたスピンオフが3作、リメイクとリマスターが3作、PSP向けに作られた別章の『クロヒョウ』が2作、全て合わせれば11年で15作となる。シリーズ作品といえども圧倒的な制作スピードである。その結果か、「ヤクザもの」という特殊な世界観でありながら、海外でも『Yakuza』というタイトル名でローカライズされ、シリーズ累計で全世界800万本を売り上げている。

シリーズのナンバリングタイトルにおいて興味深いのは、『龍が如く0』以外の作品で、桐生一馬が活躍する時代背景が「現代」というより「現在」に設定されている点だろう。たとえば初代『龍が如く』のメインストーリーは発売月である2005年12月に始まり、『龍が如く2』のメインストーリーも発売月である2006年12月に端を発する。ゲームが発売される時期から始まる、ビデオゲームとしては異例の「現在進行形」の物語。しかしそれによって『龍が如く』には発売当時のリアルな情緒が吹きこまれており、2016年12月現在を基点にしてかえりみれば、当時の文化、風俗、世相を振り返るのに格好の材料であるといえる。その視点で過去作をあらためて訪れると、この11年の間の日本社会の変化が浮き彫りになる。本稿では『龍が如く』シリーズのナンバリングタイトルの変遷と共に、そこから読み取れる変化に焦点を当てつつ、この11年を少しだけ振り返ってみたい。

 

『龍が如く』と「格差社会」

2005年12月、桐生一馬が10年の刑務所生活を終え、新宿神室町(歌舞伎町)に戻るところから『龍が如く』は始まり、彼が服役し始めた当初は存在しなかった高層ビルが神室町には建築されていた。シリーズを通じてストーリー上重要な役割を果たす「ミレニアムタワー」がそれであるが、現実の新宿歌舞伎町にミレニアムタワーに類する建築物は存在しない。存在するとすれば「六本木ヒルズ森タワー」がそれにあたるだろう。2005年当時、その森タワーにオフィスを構える気鋭の実業家達が、「ヒルズ族」と呼ばれ時代の寵児としてもてはやされた。日本経済はバブル崩壊後の長い不況が2002年に底を打ち、いわゆる金融量的緩和とゼロ金利政策によって「いざなみ景気」が2007年まで続いていた。

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ただ、戦後最長の69か月という好景気でありながらも、好況感は非常に薄かった。大企業の内部留保は増えたものの、企業の設備投資や新規事業の開拓などに消極的な姿勢が続いたことで、民需による末端への利益配分がなされなかった。また、雇用の規制緩和により非正規雇用やワーキングプアが問題視されるようになった。

一方で「ヒルズ族」に代表される新興の事業者が台頭し、旧ライブドアや村上ファンドなどによる無差別な買収が話題になった時期でもある。この時期に「格差社会」という言葉は生まれた。好景気という名のもと、多重債務による自殺者の数は増加の傾向にあり、好況が始まったとされる2002年の翌年2003年には日本全体の自殺者は3万4000人で、統計が始まって以来最高の数字となった。『龍が如く』のストーリーで重要な役割を果たすロケーションであるミレニアムタワーは、その立地が新宿と六本木で違うとはいえ、2005年当時の世相の空気感を最もよくあらわしている場所であるといえるだろう。余談ではあるが、この当時は『龍が如く4』『龍が如く5』の主人公の一人である消費者金融業者の秋山駿が、新宿でホームレスに身をやつしていた時期でもある。

画像下 左が六本木ヒルズ森タワー。右が新宿神室町ミレニアムタワー
左が六本木ヒルズ森タワー。右が新宿神室町ミレニアムタワー

 

『龍が如く2』と「韓流」

翌2006年12月7日発売された『龍が如く2』では舞台を東京と大阪の二拠点に移し、東西の抗争をストーリーラインのメインに据えた。『龍が如く』からの正統進化といってよいボリューム、シナリオは今でも評価が高い。作品は東京と大阪間の大きな抗争を根幹に置きながら、その背景では1980年代に神室町で起こった韓国系マフィアである真拳(ジングォン)派と堂島組との因縁を底流に流していた。2006年当時の日本は2003年のドラマ「冬のソナタ」に始まる韓流と呼ばれた韓国ブームに“かげり”が見え始めていた頃であり、同時に領土問題、歴史認識のずれが徐々に世間に認知されだした時期だった。2005年に「マンガ嫌韓流」の初版が発売され、同年、島根県が「竹島の日」を条例で制定したのがその現れだといえるだろう。しかし、『龍が如く2』の内容がその影響を受けていたとは考えづらい。どちらかといえば、『龍が如く』『龍が如く2』でシナリオの監修を手がけていた馳星周氏が、「裏社会での外国人マフィア」を得意の表現としているためだった考えてよいだろう。これはあくまでも時期の符合ではあるだろうが、当時の世相と微妙にマッチしているという意味では興味深い。

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『龍が如く3』と「沖縄の米軍基地」

スピンオフ作品『龍が如く 見参!』を挟み、プラットフォームをPlayStation 3に移して2009年2月26日に発売されたのが『龍が如く3』だ。同作において桐生一馬は、一連の騒動の後、心の平穏を求めるように沖縄に移り住み、身寄りの無い子供達を集めた養護施設「アサガオ」を営んでいる。今まで神室町という街で迷いつつも自分の筋を通しながら戦ってきた桐生一馬にとって、この『龍が如く3』では初めて能動的な選択の結果から物語が始まっている。望んでいながらも持ち得なかった「家族」という幸せ、その枠組みを掴むために神室町を捨てたという意味で、シリーズ全体の物語におけるターニングポイントといえる。

メインストーリーは、沖縄のリゾート開発の利権と米軍基地の拡張問題をベースとしている。この時点で米軍基地の問題を主題に扱っているのは、今から振り返ってみると実に面白い。なぜならこのゲームの開発、発売時期を見渡しても、米軍基地の問題が衆目を集めるほど大きな出来事は見当たらないからだ。

しかし2008年8月、アメリカの住宅バブルの崩壊、いわゆるサブプライム問題を発端としたリーマンショックによる世界同時株安が発生し、時の自民党政権が急速にその求心力を落としていった。国民の不安の声に応えるように、民主党(現在の民進党)が躍進。2009年8月30日に挙行された第45回衆議院解散総選挙により、自由民主党は結党以来初めて衆議院第一党から転落し、その後3年3か月にわたる民主党政権がスタートすることとなる。

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その前後、民主党の党首であった鳩山由紀夫氏が、長く日米の懸案事項だった普天間飛行場を「最低でも県外」に移設すると言及(初出は2009年7月19日)した。これにより辺野古周辺への移転という決着は立ち消え、沖縄県内でもある程度は容認されていた米軍基地問題は再燃することになる。だが、『龍が如く3』の発売は前述のように2009年2月である。それ以前の民主党マニフェストにも、普天間飛行場を県外に移設するというような記述はない。もちろん、『龍が如く3』で描かれる基地の拡張・縮小に関する問題と、発売後に再燃した移転の問題はその性質を異にするし、もともと沖縄に「存在していた」問題である。とはいえ、このタイミングでこのテーマがメインストーリーに組み込まれたことは、『龍が如く』シリーズを通してもっとも感慨深い偶然である。

 

『龍が如く4』と「世界的不況」

翌2010年3月18日、シリーズで初めて主人公を複数人にするという試みが採用された『龍が如く4 伝説を継ぐもの』が発売される。4人の主人公たちが自分の物語を進めていく中でやがて一つの大きな流れに収束していくゲーム展開と、元ヤクザ、脱獄囚、無気力刑事、消費者金融業者という個性溢れる面々の織り成すストーリーやサブストーリー、戦闘スタイルは新鮮であり、多少マンネリ化してきたシリーズにテコ入れをするという面ではこの方向転換は成功したといえる。ただし一つの物語として捉えると粗が多いとの指摘もあり、新しい方向性は新鮮さと同時に問題点を提示していた。

『龍が如く4』と現実の世相の符合はそれほどないが、新しい主人公の一人である金融業者「秋山駿」のバックグラウンドには興味深いものがある。秋山はもともと高学歴の銀行員だったが、あるきっかけでホームレスまで転落し、さらに初代『龍が如く』の「消えた100億円事件」の決着の場面にたまたま出くわしたお陰で100万円を手にし、資産を1000億円にまで増やすことに成功した。まずこの彼の設定自体が、シリーズが4年半の歴史を刻んできたことを表現している。また、彼が経営している「スカイファイナンス」の融資条件は不思議なもので、非常に困難な試験を課す代わりに、それにクリアした場合「無利子・無担保・無制限」で融資を受けられるというもの。そんな条件にも関わらず、ストーリー上ではひっきりなしにその試験を受けにくる客が現れることによって、当時進行形で続いていた世界的不況をプレイヤーに感じさせた。

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 『龍が如く』時代の秋山と『龍が如く4』の秋山
『龍が如く』時代の秋山と『龍が如く4』の秋山

 

『龍が如く0』と「バブル」

続くナンバリングを紹介する前にシリーズの過去を描いた『龍が如く0 誓いの場所』について少し触れておきたい。2015年に発売された『龍が如く0』の舞台は1988年バブル絶頂期の神室町であり、前作を通じて重要な建物である「ミレニアムタワー建設の利権」を描いた作品である。シナリオとしては、まだ東城会系堂島組の構成員であった桐生一馬と、シリーズを通して桐生のライバル的存在である真島吾郎の2人を主人公に据え、ヤクザ同士の抗争という「原点」に回帰した内容になっている。骨組みがしっかりとした良質な作品だ。

さらに特筆すべきは、『龍が如く』と『龍が如く0』の「時代の差」を非常によくあらわす「カネ」に対する感覚の違いであろう。2005年発売の『龍が如く』のストーリーで「カネ」と言えば、ストーリー回しの動機付けとなる東城会の「消えた100億円」だ。無論「100億円」は信じがたいほどの大金である。だが『龍が如く0』のゲーム内では100億円ははした金に過ぎない。サブゲームのやり込みによっては、簡単にカンストの9兆9999億9999万9999円まで個人で所有することができる。それはもう、たった100億円で抗争が起きるのが滑稽に思えるほどの「カネ」だ。さすがにいくらバブル絶頂期とはいえデフォルメされすぎた金額ではあるが、当時の金銭感覚は今と1桁、あるいは2桁違うという感覚をプレイヤーに与えることによって、その「時代」の空気を醸し出すという意味で良く計算された設計に思われる。

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『龍が如く5』と「東日本大震災」

スピンオフ作品『龍が如く OF THE END』は、当初2011年3月17日に発売が予定されていたものの、同年6月9日へと延期された。理由は同年3月11日の午後2時46分に発生した、日本周辺における観測史上最大であり、各地に凄惨な爪あとを残した「東日本大震災」に配慮するためである。直接の被害だけで約1万8000人の死者と行方不明者を出したその巨大な自然災害によって、日本は国難級の被害をこうむった。ゲーム業界だけでなく、この出来事に影響を受けなかった業界はないといえるだろう。発売延期となった『龍が如く OF THE END』は、後に「がんばろう日本ステッカー」つきで発売された。

出典:「災害写真データベース」(財)消防防災科学センター
出典:「災害写真データベース」(財)消防防災科学センター

2012年12月6日に発売になった『龍が如く 5 夢、叶えし者』に、この東日本大震災が少なくない影響を与えた可能性もある。同作では前作と同じく複数人を主人公とするシステムを採用、全国5大都市(東京・大阪・名古屋・福岡・札幌)を舞台に5人の主人公のストーリーが展開される。主人公一人一人の物語は非常に濃いものであり、ボリュームは過去最大級。特に本編のエピソードと無関係な「アナザーエピソード」では、今までのシリーズにはなかった人間関係が描かれている。「血縁」あるいは「擬似家族」という比較的濃い人間関係(社会関係資本におけるボンド・キャピタル)を主軸に描いてきたシリーズの過去作品に対し、同作では広範な社会における人間関係(ブリッジ・キャピタル)の概念を色濃く描きだしている。つまり、震災後におけるキャッチフレーズである「絆」の概念である。

たとえば桐生一馬は物語の当初、ある事情で自分のことを誰も知らない福岡という土地に移り、タクシードライバーとして生活している。その中での人間ドラマは「事情」も「過去」も語らない桐生と、それでも彼を助けてあげたいと願い行動する周囲の人々との関係性をどう築くかという物語として成立している。他のエピソード(たとえば冴島のマタギ生活、澤村遥のアイドル修行)も、肩書きとしての繋がりは赤の他人に近いが、それでも社会的に関わりのある人と人の絆を描く姿勢が見受けられる。

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『龍が如く』シリーズは、桐生一馬(あるいは澤村遥)という身寄りのない人間同士が、“実際の体験としては知らない”家族の絆を不器用なりにどうやって築いていくのか、という大テーマを持つ一連の物語だ。だが震災のような非常時には家族や恋人、血縁といった絆だけでなく、より広範かつ薄い関係性、たとえそれが見ず知らずの人間同士であっても「助け合う」ソーシャルな意味での絆が必要とされる場面もある(それは具体性を持たない心構えも含まれる)。米国での911同時多発テロ直後に国の団結を呼びかける標語として使われた「United We Stand」や、東日本大震災後の「絆」という言葉に含まれる大きな問いかけでもある。それらは明らかにこの『龍が如く5』に込められた多くのメッセージの一つであり、描かれる「絆」の多様なありようは間違いなく物語全体に一層の深みを与えている。

 

そして『龍が如く6』と「48歳の桐生一馬」

昨今では、代の移り変わる速さを「十年一昔」ではなく「三年一昔」と呼んだりすることもある。それだけ体感で感じる時代の変化は激しく、幻のように過ぎ去ってしまう。たった11年なのか、されど11年なのか。時代の変化は『龍が如く』シリーズにも色濃く影を落とし、桐生一馬という一人の漢の物語に多くの絶望と、そして僅かな希望を与えてきたことが、ふと立ち止まって振り返ると浮き彫りになっている。

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桐生一馬の皺が濃くなったのは加齢なのか、それともゲーム機の世代交代か
桐生一馬の皺が濃くなったのは加齢によるものなのか、それともゲーム機の世代交代のためか

発売直前となった『龍が如く6 命の詩』が、本当に桐生一馬の最終章なのかどうか、それはまだ分からない。ただ『龍が如く』で37歳だった彼も、『龍が如く6』では48歳になる。そろそろ「老境」と呼ばれてもおかしくない年齢になった彼が、「本当に掴みたかった幸せ」を掴み取ってくれることを祈らずにはおれない。