筆者は子供のころに『スーパーマリオブラザーズ』を遊んでいて、ふと疑問を感じた。マリオはどうして「×3」と複数の命を持っているのだろうか?クリボーに当たると命をひとつ減らし、そして緑のキノコを取ると命をひとつ増やすのだろうか?

ビデオゲームを遊んでいれば、誰しも一度は“純粋なゲーム性を追求するとしたらキャラクターや豪華なグラフィックも必要ないんじゃないか?”とか、“リアルなグラフィックの戦闘機のゲームなのに、現実の何十倍もミサイルを装備しているのはどうして?”、みたいな疑問を持ったことはあるだろう。

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これらはプレイヤーが実際にゲームをプレイしている現実的な感覚と、テレビ画面の中で起きているフィクションの物事とのズレから生まれる疑問だ。実際、ファンからクリエイターに至るまで、こうしたビデオゲームにまつわる議論は数多く行われてきた。しかしほとんどの場合、まともな結論は導き出されないままだった。

「ハーフリアル 虚実のあいだのビデオゲーム」(原題「half-real」 以下、「ハーフリアル」)は、そんなビデオゲームで生まれやすい疑問を「ルール」と「フィクション」という言葉できれいに整理してみせる、2005年に出版 された研究書だ。著者はデンマークのゲーム研究者であるイェスパー・ユール氏(以下、ユール氏)。2013年の著作「しかめっ面にさせるゲームは成功する(The Art of Failure: An Essay on the Pain of Playing Video Games)」が2015年に邦訳されたのに続く形で、昨年2016年、ついに邦訳が出版された。

ビデオゲームというジャンルは流れが早く、邦訳まで10年以上かかったタイムラグは致命的と思える。だが本書は過去のゲーム研究を参照し、『Pong』から『GTAⅢ』、そして『スーパーマリオブラザーズ』など、往年の作品から現代に連なるAAAのゲームを取り上げながら論を進めることで、普遍的な内容となっている。「この本は、過去数年のあいだに数々の学会やセミナーや記事や討議のなかで定義されてきた多くの問題に対する応答にもなっているのだ」(p.17)と記しているように、まさにビデオゲームのあらゆる疑問をアカデミックに答えてきた記録でもある。

 

「ルール」と「フィクション」

本書は序論の冒頭にて、はっきりとビデオゲームの性質をこう説明している。

タイトルの「ハーフリアル」は、ビデオゲームがふたつの異なる側面を同時に持つものであるということを表している。ビデオゲームは、プレイヤーがやりとりする現実のルールからなるという点で、またゲームの勝敗が現実の出来事であるという点で、現実的(real)なものだ。一方で、ドラゴンを倒すことでゲームをクリアするという場合、そのドラゴンは現実のドラゴンではなく虚構的(fictional)なドラゴンだ。そういうわけで、ビデオゲームをプレイすることは、現実のルールとやりとりすることであると同時に、虚構世界を想像することでもある。そして、ひとつのビデオゲーム作品は、ひとまとまりのルールであると同時にひとつの虚構世界でもある。(p.9)

簡単に言えば、「ハーフリアル」はプレイヤーが現実にコントローラーを握り、何らかの勝敗や目的の達成に向かってゲームプレイをする面を「ルール」という項で論じ、おもにディスプレイの中で展開される世界観やキャラクターなどなどを「フィクション」という項で切り分け、ビデオゲームはそのふたつが相互に作用するものとしている。本書は「ルール」と「フィクション」を交互に説明し、このふたつがどう作用するのかを分析することで、ビデオゲームならではの特徴を整理していく。

こう書くと研究書らしい、難しい内容に思えるかもしれない。でも実際にはなじみ深い疑問をたくさん例に挙げながら本書のテーマを伝えてくれる。たとえば『鉄拳4』で「小柄な少女のシャオユウと筋骨たくましい大男のマードック」(p.220)の対戦を挙げ、「シャオユウよりもマードックのほうが強いように思えてしまう。しかし実際には(中略)キャラクタたちの強さは同程度だ」(p.220)と、現実では女の子が体格の大きい男とまともに勝てるわけないのに、まともに闘えてるのはどうして?という格ゲーにありがちなつっこみが「ルール」と「フィクション」の論旨を進める例として出てくる。

 

ゲームを定義する「ルール」

冒頭で“純粋なゲーム性を追求するならばストーリーもキャラクターも豪華なグラフィックも不要なんじゃないか?”というビデオゲームで抱きやすい疑問を挙げたが、本書はそうした疑問を上手く整理している。そもそも著者のユール氏も「ビデオゲーム研究において、フィクション要素を排除する立場はたしかに魅力的なものではある。わたし自身、以前はそのような立場を取っていた」(p.24)と書いており、俗に”ビデオゲームはゲーム性が第一だ“の立場から、一歩推し進めてビデオゲームならではの特性を整理するようになったのが読み取れる。

ここで注目すべきは2章だ。あらためてゲームの定義を整理し、「ビデオゲーム」の特性を整理する土台にしている。「遊びと人間」で書かれた“遊びの4分類”で有名なロジェ・カイヨワをはじめ、ゲーム開発者会議GDCの生みの親であるクリス・クロフォード、ゲームデザインに関しての書籍「ルールズ・オブ・プレイ」の著者ケイティ・サレンとエリック・ジマーマンなどを紐解き、ゲームの定義をひとことで記している。

ゲームは、可変かつ数量化可能な結果を持ったルールにもとづくシステムである。そこでは、異なる結果に対して異なる価値が割り当てられており、プレイヤーは、その結果に影響を与えるべく努力をおこない、またその結果に対して感情的なこだわりを感じている。そして、この活動の帰結は取り決め可能である。(p.51)

「すべての論者がゲームはルールにもとづくものだということに同意している」(p.44)と記しているように、すごく簡単に言えばゲームとは設定されたルールの上で競い合うことが主だ。ここまでなら“ビデオゲームはストーリーやグラフィックよりもゲーム性”みたいな観点をうまく整理してくれているように見える。

しかし本書はこのゲームの定義を「古典的ゲームモデル」と言い切り、踏みこんでみせる。「古典的ゲームモデルは、あらゆるゲームは同じだということを示すものではない。むしろそれは、さまざまなゲームがどういう点で互いに異なるのかを説明するためのものだ」(p.63)と絶対的な定義として使っておらず、さまざまなゲームの見方を整理する意味で使われている。

古典的ゲームモデルが適用される例にはボードゲームからはチェッカー、スポーツではサッカーを挙げ、ビデオゲームでも『Battlefield 1942』のマルチプレイヤーの対戦モードが挙げられている。これらをルールに乗っ取って競い合い、明確な勝ち負けが結果に出る点から説明している。ところがいくつかの点で適応しない例として、『SimCity』を挙げている。都市を運営していくシミュレーションゲームである本作には、ルールがあろうとも勝ち負けや目的が設定されてていない点で、古典的ゲームモデルでは位置づけしきれないことを指摘している。

古典的ゲームモデルを用いれば、過去数千年にわたり登場してきたゲームを説明することができるという。一方で「ビデオゲームは、そうした数千年にわたるゲームの歴史における、もっとも進んだあり方」(p.75)と指摘し、「ゲームはもはや古典的ゲームモデルだけで話が済むものではなくなっている。たとえば〔ペンと紙の〕ロールプレイングゲームでは、ルールはゲームマスターによってその都度解釈されることがある。ロールプレイングゲームやビデオゲームの登場によって、ゲームモデルは多くの点で変わってきている」(p.73)と非電源ゲームの例も挙げ、現代のゲームを定義しきれない点を語っている。

ここで「コンピューターとゲームのあいだに親近性があるのはなぜか。」(p.73)とビデオゲームならではの特徴への言及も行われ、「(中略)ルールをどう処理するかに結びついている。ゲームが持つこの特徴は、コンピューターと相性がいい。というのも、ゲームのルールは、明確に定義されるものという性格からして、コンピューター上で実装するのに適したものだからだ。」(p.73)とその理由を説明していく。3章ではそんなビデオゲームの「ルール」がどんな楽しみや面白さを生むのかの分析を行っている。

 

「フィクション」からルールを理解する

古典的ゲームモデルがビデオゲームを定義しきれない点のひとつに、「ルールを維持するものがコンピューターに限られる」(p.73) ことで「プレイヤーは最初からルールを知らなくてもプレイできるようなゲームも可能になる」(p.74)ことを挙げている。たとえばサッカーは参加者それぞれがあらかじめルールを知らなければまともにプレイすることができないが、ビデオゲームでは先にルールを知らずとも、ある程度までプレイすることが可能だからだ。

この点から「ビデオゲームのルールは、最初はプレイヤーに見えないようになっている」「当のゲームのルールを読むだけでは、そのゲームプレイを予想することができない」(p.216)と指摘する。ではプレイヤーはビデオゲームにおいて、まず何からルールなどを理解するのかというと、「結果として、プレイヤーは、ルールを推測するのに虚構世界を使う傾向を持つことになる。もっと言えば、ビデオゲームのプレイヤーは、ルールを理解するために虚構世界を必要とすると言えるかもしれない」(p.216)と「フィクション」の意味をとりあげている。

本書の「フィクション」への言及でハッとさせられるのは、“ビデオゲームでは純粋なゲーム性を追求するならキャラクターや豪華なグラフィックは必要ないんじゃないか?”というありがちな疑問に、はっきりと「ルール」を理解していくために作用していると指摘している点である。

たとえば『スーパーマリオブラザーズ』ならば、マリオやクリボーというキャラクターやキノコ王国といった世界観の「フィクション」が描くものから、アクションゲームの「ルール」への理解を促すわけだ。そして、そんなフィクションがどんな構造を持つのかを4章で分析していく。

 

「ルール」と「フィクション」の相互作用

本書はビデオゲーム特有の体験として「フィクションとルールが理論的に区別できるものだとしても、プレイヤーのゲーム経験は両者によって形作られる」(p.216) ことを取り上げている。一方、“リアルなグラフィックの戦闘機のゲームなのに、現実の何十倍もミサイルを装備しているのはどうして?”といった疑問のように、「ルールとフィクションがぴったり一致することは、めったにない。一方で、両者が食い違っていて不格好になっている事例は数多くある」(p.201)ということも指摘していく。

しかしそんな食い違いも、「ある意味でポジティブな効果が生まれることもある。」「プレイヤーの期待をもてあそぶものとして機能するとか、パロディとして機能するとか、現実世界上の活動としてのゲームという性格を際立たせるものとして機能するとか言った場合だ」(p.201)と作品によっては意味があるものとして捉えている。

本書は「ビデオゲームは、ルールとフィクションの組み合わせだ」(p.236)と結ぶ。ビデオゲームを体験するとき、異なり食い違うはずのこのふたつをプレイヤーは半分ずつ、同時に体験しているのだ。
原書の出版から邦訳まで10年のタイムラグ、それは“物語”のデザイン

革新的な研究書である一方、原書の出版からおよそ10年経過してから邦訳されたゆえのタイムラグを感じる部分がある。ルールとフィクションの食い違いによる不格好な出来は、ここ10年のビデオゲームでは積極的に修正されてきた点などが挙げられるほか、特に気になったのはビデオゲームで物語をゲームデザインに組み込むことに関してだ。

ところが本書ではビデオゲームにおける物語に関して一貫して慎重な立場をとっており、わずかにしか語られていない。ユール氏は「よく整った「物語」のほうがより面白いプレイ体験をもたらすという主張を支持するいかなる説得的な議論もないのだ」(p.28)と、物語性を中心に研究する立場とは距離をおいた発言を多く残している。

本書で参照されるビデオゲームでも、物語に関して語りやすそうなRPGやアドベンチャーのタイトルはあまり挙げられていない。こう距離を置いている理由には、そもそもの“物語”という用語自体が論じる側や理論ごとに多様な意味を持って使われてしまうせいで定義がブレてしまうほか、過去のゲーム研究でも既存の映画や文学といった物語論の側からの研究があまり良い結果を得られなかったことが原因のようだ。それに伴ってなのか、ゲームデザイン側から多様な意味を持つ物語をどう解釈し、ゲームプレイに組み込んでいるかの言及はわずかである。

しかし本書が出版された2005年以降に広まったインディーゲームで行われた数々の実験的な試みや、AAAタイトルではリアリティを増した「フィクション」の世界と「ルール」との整合性を保つゲームデザインにともなう形で、物語をゲームデザインに組み込む傾向が見られる。2006年にはTHQにてNarrative Disigner(物語のデザイナー)という役職が設立されるなど、ゲームプレイで物語を体験させようとするデザインはここ10年のあいだに特に研鑽されてきた。

本書ではビデオゲームで物語をデザインする可能性に関しては、そもそもの物語という言葉がどのような場合に使われるかの複数の定義を提示するまでにとどまっている。だが当のビデオゲームを制作する側はゲームデザインにあやふやな意味を持つ物語を取り扱うとき、ゲームデザインに生かせる部分で解釈し、デザインに取り込んでいるのが現在の作品から見て取れる。その作例からあらためて、ビデオゲームの物語とは何かを整理できるのではないか。

 

緑のキノコは、生命を増やすものだったのか?

本書を紐解くと、ビデオゲームの疑問や議論のほとんどが、作品中の「ルール」と「フィクション」を混同してしまうことで生まれていたことがわかるし、またビデオゲームの体験がこの両者が作用することで形作られるゆえに、混同しやすいことにも気づく。そこを整理することで、さまざまなビデオゲームの実像をあらためて確認することができるのだ。

筆者が子供のころに抱いたマリオの命に関しての疑問は、本書の言葉を借りれば以下のように整理できそうだ。『スーパーマリオブラザーズ』というビデオゲームを遊ぶ時、まずパッケージやゲーム画面に映るマリオというキャラクター、クッパという敵、キノコ王国という世界観の「フィクション」から触れる。そこから制限時間内にジャンプやダッシュというアクションを使って障害を超え、目的地に向かう「ルール」を理解していく。筆者は真っ先に触れるマリオの生きる「フィクション」の世界の説得力を重視したために、「ルール」とずれる違和感からそんな疑問を抱いたのだと思う。緑のキノコは、ステージにチャレンジできる回数を増やす「ルール」を一目でわかりやすく伝える「フィクション」としてデザインされたものだ。

 

総評

誰でもビデオゲームを遊んでいて一度は思い浮かぶ、いろんな疑問を「ルール」と「フィクション」という視点できっちりと解きほぐしてくれる内容。ビデオゲームならではの性質や特性を、過去のゲーム研究や事例を参照することで整理している。研究書のため、文章を読み解くのに時間がかかる面があるが、決して敷居が高い本ではなく『スーパーマリオブラザーズ』などなじみ深いタイトルの例を挙げながら解説してくれる。ゲームそのものの定義をあらためて整理できるほか、ビデオゲームならでは特徴を知りたい・見方を整理したいと思ったら必読。

 

書籍情報

「ハーフリアル 虚実のあいだのビデオゲーム」
出版社による紹介ページ。pdf ダウンロードによる冒頭の試し読みも可能)
著:イェスパー・ユール
訳:松永伸司
書籍版 3780円(Amazon
PDF版 3024円(購入はこちらのページから

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