ゲームを面白く感じる必要はない

 

私が満面の笑みを浮かべながら嬉々として「このゲーム全然面白くないんですよ!」と褒めるとき、たいていの場合怪訝な顔をされます。弊誌ライターから「安田さんのゲーム愛は歪んでますね」とまで評されたこともありました。

私の感覚は、少なくとも私の考えの中においてならば矛盾はありません。また、異質すぎて何者にも受け入れられないような類のニヒリズムでもありません。どういうことなのか、順に追っていきましょう。

 


「面白い」とは何ぞや

 

私は自分の感性を半分ほどしか信用していません。私が面白いと感じたゲームが、真なる価値を内包したものとは限りません。これは誰にとっても(きっ とクリエイターやゲーム企業にとっても)いえることのはずです。面白さを安易に定義するなど神を試みるに等しい所業にほかなりません。

往々にして人が「面白い」と感じる場合、それは過去の経験との同質性を知覚しているにすぎません。楽しかったあの作品の続編である・同じクリエイ ターが創っている・同じ会社が創っているから始まり、ゲームが似ている・操作感が似ている・ジャンルが同じ・”精神的後継”……。すべて、追体験を期待 し、そこに「面白さ」なるものを見出しているにすぎません。

それは悪いことではありません。有限なリソースしか与えられない人生において、毎回毎回冒険心に満ち溢れさせ謎の沼に足を突っ込んでいたら命がいくつあっても不足でしょうから。

 


面白くなくていい

 

ただし、過去との対称性で認識できる”面白さ”ばかり追求していては、人は同じようなゲームばかりしかしなくなります。また、商業的な成功を求めら れる製作サイドの方はより事態は深刻で、成功体験をトレースする安全運転にならざるをえません。このあたりはみなさん思い当たるフシがあるのではないで しょうか。

ゲームは娯楽なのだから面白くないといけない……それもわかります。私とて、『SPIKEOUT』が世界で一番「面白い」ゲームだと断定しているのですから。積極的に”面白さ”の外側に踏み出すのは勇気がいります。しかし”面白さ”など、所詮は霞がかった尺度にすぎません。

 


面白くないからこそよかった例その1 『Journey』

 

いくつか例を挙げましょう。『風ノ旅ビト(Journey)』、説明不要、数多のアワードを獲得した作品です。ですが、はたして本作は本当に面白 かったでしょうか? 私はそうは思いません。ゲーム性(これもバズワードですが)は存在せず、ただ淡々と進む面クリア型のアドベンチャー。謎解きもアクションもなにもない無味 乾燥とした世界です。アートワークも、それ1つの独創性を切り出して絶賛するほどのものではなかったでしょう。

しかし本作は評価されました。コアとなったのはおそらく、たった2人用のネットワークプレイにおける「1ボタンでしか意思疎通できない」という制約です。これはゲームとしてはまったく面白くありません。

ですが、皮肉屋の私ですらそれには価値を見出しました。面白くはないけれど、ある著名な評論家の言葉を借りれば「ヤバい!」「革新的!」 「ワォ……」といったところ。過去の構文に照らし合わせると、悪い意味でクレイジーであると批判されかねないようなゲーム内容が、各パーツと奇跡的なマッ チングをみせ、そしてユーザーがそれを評価したのです。

本作がいくつかのイベントで受賞し、スタンディングオベーションが巻き起こるなか、きっと何人かが疑問符を頭に浮かべていたはずです。2013年度 GDC 会場でも、熱狂者と冷めた表情の人(少数派)とできれいに分かれていました。それはそうでしょう。面白いゲームではなかったのですから。しかし本作は面白 くなくとも価値のあるゲームであると認めなければなりません。

 

これを「面白い」と本当に断言できるか?
これを「面白い」と本当に断言できるか?

 


面白くないからこそよかった例その2 「須田ゲー」

 

もう1つ、私にとっての”面白さ”概念を説明するにあたり外せないのが須田剛一氏による作品群です。SUDA51作品は、グラスホッパーマニファク チュア創設以前からも「須田ゲー」として一部マニアの間で親しまれてきたことをご存じの方もいらっしゃることでしょう。私も愛してやみません。

須田ゲーは基本的に、「面白い」か否かといった単純な評価をくだされてしかるべき性質のものではありません(『NO MORE HEROES 2』あたりから若干毛色が変わってきていますが)。表現を悪く解釈しないでください。既存の面白さの定義の外に在る存在なのです。

須田氏の「前向きな面白くなさ」を明確に体現したのは『花と太陽と雨と』と『killer7』の2作です。

『FSR』はおそるべき作品でした。オーソドックスなアドベンチャーゲームなのですが、まったくアドベンチャーをしません。ただ無心にフラグが立つ 場所へ走る、マラソンめいたゲームでした。一切の起伏がない、乾ききった味わい。しかし、それを彩る世界観・物語・音楽・映像表現、すべてが高度に組み合 わさり昇華されているのです。『Journey』と同じような現象を日本人が数年ほど先取りしていたと言えなくもありません

しばしばゲームたいし「映像作品」なる表現が使われることがありますが、『FSR』』こそまごうことなき真の映像作品であり、ゲームでありながら非 ゲームであるという、矛盾の極北に屹立していました。本作をプレイするにあたり、面白さを求めてはなりません。「須田らしさ」という別の味覚を刺激するス パイシーでエキセントリックな装置なのです。

 

フラグが立っていない場合説明なしになぜか立ちふさがるレスラー。 なぜかスクワットをしていてどいてくれない。 理由は「無我の境地だから」。
フラグが立っていない場合説明なしになぜか立ちふさがるレスラー。

なぜかスクワットをしていてどいてくれない。

理由は「無我の境地だから」。

 

『killer7』は本当にスゴかった作品です。詳細は後日別途述べることにします。ただ、エッセンスだけ抽出すると、まずアドベンチャーとFPS を組み合わせたスタイルでありながら、FPSパートを「演出」として活用し(=事実上ゲームとしなかった)、それでいてプレイヤーに操作の爽快感を与える ことに成功したこと。これはまずFPSとして、シューターとして見ればまったく面白くありません。ですが、その突き抜けるような快楽を否定することは何び とにも不可能です。

また、アドベンチャーとしても無茶苦茶な内容で、移動はA/○ボタンで前進/分岐で移動/振り向きくらい。チュートリアル役キャラクターによるセリ フ「慣れれば快適な旅路となります」は『k7』を知る人ぞ知る語りぐさです。そして事実、快適だったのです。面白いかどうかはともかく。

 

 


あまりにも衝撃的だったトレイラームービー(公式のものは削除されています)

 

須田ゲーはプレイするドラッグです。

 


ゲームの面白さを狭めてはならない

 

「このゲームは面白い」と感じること、それ自体は善です。趣味を楽しめなくなっては困ります。他方、「面白いゲームをやりたい」と考えることはよろしくありません。それではきっと同じようなゲームばかりプレイすることになるでしょう。

“面白さ”は完全に主観です。どれだけクリエイターがお膳立てしようと、コミュニティが盛り上がろうと、結局は自らが実感しなければなりません。一 方、大量のサンプルが準備された”既存の面白さ”から逸脱した設計が創りだされることは充分にありえます。その妙味をスルーすることは、ゲーム愛好家を名 乗るのならば許されません。

ゆえに、”新たな面白さ”とはゲーマーたちによって創りだし見出されるべきものです。さらに、それは熱心なプレイヤーらが創造主の思惑を超えて到達 することもままあります。偶発的ですらあるでしょう。逆に、様々なものが与えられ輪郭がはっきりしすぎた”面白さ”を享受し安寧することは、惰眠をむさぼ るにも近しい行為です。

私が求めているのは次なる「面白さの軸」です。私が「このゲームは面白くない」と言ったとき、それは「次の軸が見つかりそうだ」ということにほかな りません。本当に救いようのない作品に出会ってしまった場合は、黙ってそっと電源を落とすだけです。とはいえ、「あれはなかなかひどかったぞ」と後々話題 にするためたいてい完食するのですが。