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BLUE REFLECTION 幻に舞う少女の剣(以下、ブルーリフレクション)』をレビューしようとする時にチェックするべき項目は、「ゲームそのものの完成度」と「ジェンダーロールからの逃避先としての機能」の両面が高い水準で両立されているか、その2点しかない。無論、これがゲームとして発売されている限り、ゲームとしての水準はもっとも重要な点ではある。だが今作において、制作側が徹底的にこだわり抜いている点が、“「女性」しかキャラクターが出てこない世界観において、主人公の女性が女性との交流を重ねながら戦い成長していくというストーリーテリングの在り方”であるならば、その狙いが成功しているか否かという点から目を背けてこのゲームを語ることは不可能だろう。そして女性のみで構成された物語は、実は現代社会においてある種の定型化がなされているフォーマットのひとつであり、その底流に流れる背景は一般的に考えられているほど低俗なものではない。

2013年にワシントン大学が発表した研究論文によると、夫婦間の所得において女性が男性を上回っていった時、つまり夫が妻よりも充分な量の成果物を家庭に運べなくなっていくにつれ、男性側の健康に悪影響がでる確率が明確に大きくなり、ED治療薬の処方も多くなるという。同論文の臨床データは、OECD加盟国の中でも男女平等という意味ではあらゆるデータで高位置につけているデンマークで取られたものであり、そんな国でも「男性は収穫物を多く持ち帰らなければならない」という無言の圧力はしっかりと息をしているわけだ。

これは「社会システムの上での男女同権」と「社会通念としての男女同権」は必ずしも一致しないということがわかるケーススタディであると同時に、生物学的性別が社会的に期待される役割としての「ジェンダーロール」の観念がいかに根強いかを物語る証拠といえる。このことは、男女の性差における役割の隔たりが他国と比べて大きい日本においても見られる。男性が男性としてあるべき姿、女性が女性としてあるべき姿という、社会的に強いられた役割はすでに「呪縛」といって差し支えないものだろうことを想像させる。「性差」という概念の意味合いが社会的に変化していく世界的潮流の中で、社会に生きる人間の中に根付いたステレオタイプ化している社会通念だけはずっと変わらない。皮肉なことに、その自己矛盾の軋轢の中で大きなストレスを感じている事実に男女の差はない。そして、変化を求められながらも同時に変化を許されないストレスから来るしわ寄せは、結局のところ現状からどう上手く逃避するのかという一点に集約されていく。それほどまでに「男性は男性をやっていることに」疲弊しており、「女性は女性を演じること」にうんざりしている。我々が暮らしているのは、そんな現代社会だ。

女性しか出てこない、あるいは端役か自己のセクシャリティーを絶対に主張しない男性しか出てこないという特殊な世界観を持った物語は、2000年代にまず深夜アニメなどで見られるようになった。決して女児向けに制作されたわけではない、その一種異様であり歪な作品群は、自己のジェンダーロールと向き合うことに疲れた男性の逃避先として爆発的に受け入れられるようになった。『ブルーリフレクション』というゲームの狙いは、疑いなくその文脈上に存在している。

実際のところ、エンターテイメント作品において一歩先に「ジェンダーロールからの逃避」を成功させたのは、「ボーイズラブ」いわゆる「BL」と呼ばれる女性向けコンテンツだ。今や200億を超える市場規模を持ち、少し大きめの書店に行けばそのコーナーを見つけることは容易なほどの市民権を得ているジャンルであり、その歴史は数十年前に遡ることが可能だ。しかし本質的な問題は、そこから得られる逃避の構造である。その定義をひと括りにするのは不可能な話として、「ボーイズラブ」というのは「男性同士の恋愛」を楽しむ嗜好である以前に、「自分の性でないキャラクターの恋愛」であることが重要な要素として含まれているのは間違いない。一見同じことを言っているようだが両者はまったく違う。自己の性別を演じることに疲れた女性が癒しを感じるためにもっとも重要な要素は、第一に「同性でないこと」であり、「異性であること」はそこから副次的に帰結される結論でしかない。つまり簡単に言えば、登場するのが「女性」でなければよく、その結果としての男性同士の恋愛という側面があるわけだ。従ってそこに出てくる男性は決してリアルな男性である必要はなく、むしろファンタジー世界の中の性別して認識されるキャラクターである。一種不可思議な言い回しにはなるが、それは「理想的に擬人化された男性」という言い方がもっともふさわしい。そこに投影されるのは自己のジェンダーとは完全に切り離された、現実と無関係で純粋な恋愛感(あるいは友情に近い愛情)であり、そこにあるのは女性が「社会的に求められた役割」を感じる必要のない理想郷だ。

細かい感性に違いはあるにせよ、男性にとって「女性だけの世界観の物語」の存在が、女性にとっての「BL」の文化の対になるものだと仮定するならば、『プルーリフレクション』がどこまでその水準に達しているのかを考えるための指針は明確だ。そこに用意された世界に浸ることによって、どれだけ現実生活で求められる自己の性別の役割から逃避できるか、その為の装置としてどれだけ有用なのか。つまり意識するしないに関わらず、日々男性が男性的な振る舞いや言動を社会に期待され続けていることからくる澱(よどみ)の如く溜まった心の疲れを、どれだけ「癒せる」仕掛けなのか。このゲームが指向している場所がそこにある限りにおいて、その重要性はゲーム性と同等に近い。

 

「擬人化された女性」と「理想化された世界」

怪我により自分の夢であったバレリーナになる道を絶たれた主人公「白井日菜子」は、そのショックから自身の高校の学生が夏服を着るようになるまで一回も登校できなかった。その情況を打破するために重い腰を上げ初めて学校に行った日に、同級生の不思議な姉妹と出会う。そして突如周りの時間が止まり、謎の巨大生物が現れた時、魔法を使うことのできる「リフレクター」と呼ばれる力を手にする。同じように「リフレクター」である謎の姉妹と共に、この世界を狙う「原種」とよばれる巨大な敵との戦いに身を投じていく。『ブルーリフレクション』はそんな冒頭から始まる。

ゲームプレイは学校を舞台に進み、サブキャラクターと出会っては、そのキャラクターひとりひとりが抱える悩みを解決しながら自分も成長していく。いわゆる「学園もの」の王道展開だ。ある女子は周囲の期待を重荷に思い、ある女子は自分が信頼していた先輩の行動で心に傷を負い、そしてある女子は綺麗である努力をしていることで周囲から誤解を受けている。日菜子はそのひとりひとりが抱える葛藤を自分に重ね合わせることによって、徐々に「自分にとって何が一番大切なのか」を考え、成長していくことになる。

非常にシンプルな成長譚ではある。しかしそのシンプルさの中にある要素ひとつひとつを検証していけば、この物語がいかに「癒し」にこだわっているかがわかる。ひとつは「サブキャラクターの悩みがそこまで重くない」ということ。さらに重要なことは「主要登場人物が全員本質的にいい子である」という点である。この手の物語において最低限要求されることは、現実社会で感じる負の感情をどう解消するかであり、その部分を外すとどれだけ舞台設定的に要件を満たしていても、逃れたい現実は見え隠れする。ゲームに限らず、登場人物に個性を持たせつつ「本質的には全員がいい子」としてのシナリオを描くのは、実は非常に難易度の高い。だが今作品では、個性的なサブキャラクターたちと悩みを共有することによって互いに成長をしていく表現は、個々のシナリオの演出上では成功している。

この手の作品において、「女子高での女性同士の関係性がこんなに純粋なわけはない」という批判は的外れである。なぜなら「BL」について触れた際にも述べたように、「自己のジェンダーロールからの逃避」には自分からもっともかけ離れた性別としてのキャラクターが必要なのである。「リアルな女子高生」ではなく、必要なのは「理想的に擬人化された女子高生」なのだ。

ゲーム内のほとんどを過ごすことになる学校生活パートは、基本的に至極ゆっくりとした流れで展開されていく。岸田メルによる繊細なタッチで描かれたキャラクター、美しく静かな音楽、ふと懐かしさすら感じさせる「採光」にこだわった陽だまりの中にいるかのような演出。それら全てが今作品に求められている、そして今作品が指向している「癒し」の機能を相互に補完しあっている。たとえば、毎日主人公が寝る前に入浴するるかどうかが選択できるのだが、湯船につかろうとそこで考え事をしようと、ゲームの進行にはほぼ関係がない。このようにゲーム進行に関係ない選択肢をあえて作っておき、プレイヤーにその行為をするかしないかを選ばせる演出に、主人公への感情移入を促進する以外の目的はおそらくないだろう。学園生活の細かな側面側面で、微に入り細にわたってこのゲームが目指している「優しい世界」への没入と「自己の性別からの逃避」への誘いが意図されている。

学園生活の優しさとは逆に、メインシナリオは骨子がしっかりした重厚感のあるものであり、敵が何者で、自分達は何のために戦って、何を失い何を得るのかという撒かれた伏線の回収もしっかりされている。怪我によって夢を失い、止まってしまった時間を過ごしていた主人公。彼女がふたたび力強い一歩を踏み出していく様子と、それにオーバーラップしていくように畳み掛けてくるクライマックス部分の演出は、プレイヤーの感情をしっかりと揺さぶる。決して「癒し」だけではなくプラスアルファの感慨を抱かせるに充分の内容であり、好みの差こそあれシナリオ全体の質は高い。

 

RPGというジャンルを冠する意味

繰り返すが『ブルーリフレクション』のチェック項目はふたつ、「ゲームとしての出来」と「ジェンダーロールからの逃避」の水準だ。後者に関して期待されていたものは高い水準で実現できている。サブキャラクターたちの個別シナリオの演出のボリュームが不足していること、あるいは戦闘終了時のカットインのバリエーションの少なさなど、羅列できる欠点はいくつもあるがどれも致命的ではなく、「ジェンダーロールからの逃避先」としての機能を果たすという一方の目標は予想を遥かに超えた場所に到達している。

ただし、これを一本の「ゲーム」として制作したということは、プレイヤー全員に「ゲーム」としての出来を評価されることからは逃れられない。その観点からみると、このゲームの完成度に担保をつけることは決して出来ないといえる。もっとも致命的なのは、このゲームが「ロールプレイングゲーム」と名乗る意味がほぼ無いに等しいということだ。このゲームの戦闘はアクティブタイムバトル形式を採用した日本式RPGのゲームデザインが採用されており、目新しさはないが馴染みやすいものではある。キャラクター個々の持つスキルにはそれぞれ属性があり、敵の弱点属性を突く攻撃は利きやすく、逆に耐性を持たれている攻撃は利きにくい。またスキルには「ノックバック効果」を持つものがあり、敵の次ターンまでの時間を延長させることができる。さらに各スキルは、サブキャラクターたちとの絆に応じて手に入る「フラグメント」と呼ばれるアイテムを埋め込むことによって、特殊効果を発生させることができる。特殊効果は「行動スピードが早くなる」ものから「スキル威力の上昇と引き換えに体力が減る」といったものまで、さまざまだ。後述するエーテルチャージという概念やジャストガードなど、シンプルながらそれなりに挑戦的なシステムを組み込んだ戦闘は、一見よく練りこまれているように見える。

しかし、このゲームにおいてこの試みは失敗していると断言できる。それは何故か。このゲームでエンカウントする敵と戦う、いわゆるモブ戦を繰り返しても、ほぼ使う事がないアイテムをドロップするだけでほとんど意味がないからだ。またサブキャラクターとの絆を深めることでレベルアップしていくシステムの弊害で、戦闘難易度が極端に低いことも拍車をかけている。これではシステムが生きない。このゲームはRPGとして考えた場合、「戦闘システム」に欠陥を抱えているというよりは、「全体のレベルデザイン」そのものに失敗していると言うべきなのかもしれない。戦闘ではなくキャラクターとの絆やミッションの進行度によってレベルが上がっていく方式は、好みはあれど決して非難されるべきものではなく、好意的に見れば戦闘のシステムそのものの構築にも手を抜いている訳ではないのだろう。しかし進行上あまりにも早くレベルが上がってしまうことによって、それらのシステムが全て死んでしまっており、数多く用意されたスキルのモーションを眺めるだけの戦闘になってしまっている。

その証拠に、ゲームの進行度に合わせて出現する「原種」と呼ばれるボス戦は、難易度が高いか低いかという問題を除けば、しっかりと戦略性とカタルシスを得られるものになっている。前半は「ノックバック効果」を利用し敵の攻撃を遅延し、部位を破壊しながらジャストガードを使って敵の攻撃を凌ぎつつ、エーテルチャージという行動回数を増やすための溜めを作り、最大溜めによる合体攻撃でボスのコア部分に対して大ダメージを狙っていく。あまりにもモブ戦との面白さの解離が激しすぎて困惑する程度に、今作の戦闘システムはボス戦に限って完全にかみ合っている。しかしそれでは多種多様な食材を準備しておきながら米だけで腹を膨らませるようなものだ。ジャンルで言えばこのゲームは「RPG」ではなく、動ける「ノベルゲーム」に近い。実はセクシャルな部分だけに焦点を合わさず(だからといって無視するわけでもなく)、かなり正攻法に近い方法論で「ジェンダーロールからの逃避」を狙った作品はゲームでは非常に珍しい。見るべきところの多い作品だっただけに、ゲーム部分の失敗が目立つ結果になってしまったのは実に残念だ。

 

「逃避」の受け皿、ゲームとしては

「逃避」という言葉に対して、以前ほどではないにせよネガティブなイメージを持つ人は依然として多い。しかし人生の局面に訪れる強いストレスから、一時的にせよ「逃避」したいと思う心は、ごく自然なものである。時の移り変わりのなか、生みだされ続ける「エンターテイメント作品」は、その時代に発生するあらゆるストレスからの逃避の受け皿としての側面を常に有しているものだ。その受け皿として『ブルーリフレクション』という作品が機能したか機能しなかったかといえば、疑うべくもなく機能したと言っていいだろう。

ただし後半で述べたように、ゲームとしての完成度はいまだ発展途上であり、次回作以降に多くの宿題を残している。軽く見られがちなジャンルだから軽く作ってもいい、という理屈は成立しない。時代がそういったジャンルを求めていることを確信したのであれば、偏見を失わせるような作りこみを見せてジャンルの壁を突破するべきだ。簡単ではないことは理解できるが、ゲームで表現しようとしている限り、ほかの要素の完成度がどれだけ高水準であろうと、結局はゲームそのもののクオリティ以上の評価はあり得ない。必要な人に必要な「逃避」と「癒し」を届けるための真摯さと熱が制作陣に残っているのならば、もっと多くの人にそれを届けるためにゲーム部分をブラッシュアップした次回作を制作するべきだろう。

程度や自覚の差こそあれ、現代社会を生きているほとんどの人間は、もう自分を演じることに疲れきっている。人の世で「逃避」が「救い」になることは決してめずらしいことではない。「青い光の反射」が届くことで気持ちが救われる人は、きっと、想像よりずっと多い。

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