完全な一人称視点のなかで、プレイヤー(=プレイヤーキャラクター)が船の甲板に座っている。彼の手元には、その表紙に「Edith Finch(エディス・フィンチ)」と記されたノートがあり、かたわらには蘭の花束が置かれている。プレイヤーの操作によってキャラクターがノートを開き、そこで女性の声の語りが始まる。

「私は十一才の時までここに住んでいたけれど
 家の半分は立ち入りが許されていなかった
 ここに戻るのは兄の葬式以来はじめてになる」

ここで画面が変化していき、船の甲板に座っていたはずのプレイヤーの視点は、舗装の荒れ果てた道路へと移る。近くには女性の声が語っていたと思わしき、森林のなかに佇む塔のような家が見える。

スポンサーリンク
フィンチ家外観。

ここでプレイヤーの操作が許され、キャラクターは森林のなかを歩いていく。女性の声のナレーションが差し挟まれるが、ゲームを進めるにつれてしだいに明らかになってくるのは、この声がエディスという人物によるものだということだ。つまり、「What Remains of Edith Finch(拙訳:エディス・フィンチが遺したもの)」という原題が暗示していたとおり、本作で映しだされる映像は、ほとんどすべてエディスの遺したノートを読む主人公の想像(プラス主人公自身の体験)であって、そのために夢のなかでしか起こらないような映像表現が物語的に許されることになる。

ゲームのあらすじに戻ろう。冒頭の船のシーンから移り、早々にエディスの視点を体験することとなったプレイヤーは、彼女を操作して、彼女が生まれ育った家に帰省することになる。荒れ果てた道路から家にたどり着くまでのわずか数分で、すでにこの家がなんらかの奇妙な出来事に満ちあふれた場所であることが知れてくる。郵便受けには七年前の「重要 至急開封」と書かれた請求書が入ったままになっているし、エディス自身も、自分が相続したこの家にまさか帰ってくることになるとは思わなかったと独白する。すでにこの世を去ったと思しき彼女の母からもらい受けた鍵は、玄関の鍵ですらなく、プレイヤーは裏手のガレージから犬用の子扉を使って宅内に入らなければならない。

フィンチ家内観、書庫前。そこにあるもの自体は普遍的だが、とにかく量が多い。

増改築を繰りかえしたと思われるその外見以上に異様なのは、フィンチ家の屋敷の内部だ。とにかく、信じられないほど多くの事物にあふれている。なによりも目を惹くのは廊下にまで溢れ出た書物の山だが、それ以外にも大量の鮭の缶詰や、封鎖され覗き穴がしつらえられた家族の私室のドア、各々の私室のなかに遺された彼らの魂を反映していると思われるような小物の数々が、そのままの形で残されている。七年間の時を経たにもかかわらずまったく整理されておらず、まるで住人の帰りをいまだに待っているかのような邸内は、エディスとその母親がこの家を出るとき、ほとんど何の荷物もまとめないまま足早に去っていったことを仄めかしている。

ポーズメニューで回覧できるフィンチ家の家系図を読み解くと、(時代背景を抜きにしても)ほぼすべての人物がかなり短命であったことがわかる。プレイヤーはエディスとして、このノートに書かれている名前のひとりひとりが所有していた部屋のなかを、隠し扉や隠し通路だらけの屋敷をさまよいながら曝(あば)いていく。すべての部屋には、かつてのエディス家の一員であった人物の肖像があり、生年と没年が記されたプレートが置かれている。そして、写真や詩や日記など、故人あるいは関係者の遺したドキュメントによって、彼らの死因が明らかになる。

フィンチ家家系図の一部。その人物の物語を読み解くと、エディスの手によって肖像がスケッチされる。

フィンチ家のメンバーの死因が明らかになるシーンはさらなる入れ子構造になっていて、シンプルなテキストの提示で済まされることはない。エディスがそれらの遺物を読解して想像したイメージが、ディスプレイに映し出されるのだ。たとえば1937年から1947年までを生きたモリーという女の子は、自分が怪物になった夢を見、最後には自分自身を食べて死んでしまう。あるいは、1944年から1960年までを生きたバーバラという女の子は、幼少期に子役としてハリウッドのスターダムを駆け上がるものの、十六歳のときに「怪物」たちに襲われて死んでしまう。個別のキャラクターには個別の映像表現が用いられていて、モリーの場合はプレイヤーの一人称視点の操作キャラクターが猫や梟や鮫になり、バーバラの場合にはアメリカン・コミック+カートゥーンレンダリングのような描写が用いられる。

これは、エディスが彼女たちの死因を読解するために参照するテキストが、モリーの場合は夢日記、バーバラの場合はアメリカン・コミックであるからだ。そのために、ひとりひとりの死因を曝くことに飽きるということがない。さらには、画面上で展開されるフィンチ家の個別のメンバーの物語に付随するように、エディスの思考や発見がナレーションで語られる。小説の技法に見立てて言い表すならば、フィンチ家の家族の物語を語る個別の作中作が連作短編であり、それらのテキストを求めるプレイヤーの操作が連作どうしを結ぶ横糸になっていて、そこに「思考の流れ」の技法を駆使したエディスのナレーションが挿入されるというわけだ。

あらためて強調しておきたいのは、この作品が上記にしたようなことを、ほとんど一瞬にしてやってのけているということだ。映像、操作、そして言葉の組み合わせ。信じられないほど巨大な作品構造を、論理ではなくフィクショナリティで語りかけてくる。さらには、いま述べた組み合わせの技法が、技法としての美しさのみならず、たとえば美しい西洋絵画を見たときのような感覚で、総体的に見る者に迫ってくる。

いくつかのスクリーンショットをご覧いただければただちに了解されると思うが、この屋敷は奇妙である。その理由は、かつてのすべての住人の魂が、グラフィックデザイナーの職人芸によって封じ込められているからだ。まったく当然のことだが、この屋敷におなじ部屋はふたつとしてない。そして、すべての部屋に、その部屋を私室として使っていた個人が愛していた事物があふれている。かつて軍人であった男の部屋には猟銃とたくさんの勲章、孤独な生活を送っていた地下生活者のねぐらには生きるための物資、そしてすべてのフィンチ家の人々の物語を覚えていた、100歳近くまで生きた曾祖母の書庫の大量の書物。これらのオブジェクトが、たんなるグラフィックとしての機能を越えて、部屋の所有者の人間性さえをもプレイヤーに伝えてくる。まるで小説のなかに登場する洗練された風景描写が、本来の風景が持つ以上の巨大な感情を訴えかけてくるようにして。

グラフィックがもたらすこの効果だけで、ウォーキングシミュレーターを愛好するプレイヤーにとっては諸手をあげて喜びたくなるような成果なのだが、本作の魅力はそこに留まらない。というのは、すべてのグラフィックは、たったひとつの巨大な謎に注意を向けるために作られているからだ。謎とはつまり、なぜこの「フィンチ家」は、こんなにもたくさんの早世者ばかりを擁することになってしまったのかという疑問である。なにせ彼らは、新しい家族が生まれると、家を増築するまえにまず墓を作りはじめるほどなのだ。

作中の回想のなかに登場するキャラクターたち自身も、自分の一族の早世の原因をわかっていない。あるものは呪いだと断じ、あるものは運命だと考え、あるものは血統だと誇るのだが、これこれの原因でフィンチ家の人々は早世しがちなのです、というすべてに通じる共通の答えは存在しない。あるいは、プレイヤー自身が想像しなければならない。というのは、フィンチ家のメンバーのそれぞれの死因には、まったくもってどのような共通項も存在しないからだ。

ただ確かなのは、フィンチ家という家族には信じられないほど多くの出来事が起こったということ、そしてこの浜辺の邸宅は、それらすべての出来事の記憶によく耐えてきたということだ。新しい家族が生まれるたびに自発的に増改築を繰りかえした邸宅は、まるで出来事によって成長していく樹木のようであり、注意深いプレイヤーはここに、ところにょり氏の『ひとりぼっち惑星』との意外な共通項を見出すことだろう。

こんな言い方ができるかもしれない。あるひとつの家族が耐えられる悲しみの総量には、彼らが家族であるという理由から限度というものがあり、そのために悲しみの許容量を超えたフィンチ家は解散せざるを得なかった。あとにはたったひとりの末裔であるエディス・フィンチという少女が残され、彼女はすべてをノートにしたためた――それでは、冒頭の甲板のシーンで彼女のノートを読んでいた人物は、いったい誰なのか? 答えは、実際にゲームをプレイして確かめてもらうほかない。蘭の花束が意味すること、そして彼が「フィンチ家の奇妙な屋敷でおきたこと」を知るに至った経緯については、本作は完璧な解答を用意している。ラスト・シーンでその内容が明かされたとき、プレイヤーは本作を、後世まで語り継がれるウォーキングシミュレーターの金字塔として認めることだろう。

ニュース

Indie Pick

インタビュー

レビュー・インプレ

Devlog