かつて、ごく短い期間ではあるが親密な間柄であった女性から、「妖精の声が聞こえる」という告白を受けたことがある。最初は冗談だと思って聞き流していたが、当人は至って真剣で「声どころか姿が見えることもある」と、何かが張り付いたような表情で語り始めたので、何やら怖くなって話をそこで打ち切ってしまった。その後、徐々にその女性とは疎遠になり、結局は関わりを持たなくなった。彼女との関係がなくなった原因は、長い間、その話をしていた時の彼女への恐怖心にあると思っていた。耳元で聞こえてくる彼女の声や、妖精の姿について語っている時のどこかおぼつかない表情、まるで限りなく深く吸い込まれそうな孔(あな)のような暗く光る両目。ただ、それなりに時間が経過した今、過去の出来事としてそれを思い出してみると、彼女の表情がそこまで異常であったのかどうかの確信が持てない。はたして彼女の眼差しが本当に病的だったのか。あるいは、その話を聞いた瞬間に意図せず「常識」という名のフィルターがかかり、筆者の意識が幻を見せたのか。彼女が聞いていたのは幻聴なのか、実は本当に妖精の声を聞こえていたのかという点も含めて、今となっては全てが時間という靄の中に消え去ってしまい、今に至っても結局はただの一つも真実は見えてこないままだ。

Hellblade: Senua’s Sacrifice(以下、Hellblade)』は、ケルト人の女戦士セヌアが、北方民族の生贄にされた恋人の魂の解放を求めるアクションアドベンチャーだ。作中では、恋人の魂を所有し縛り付けている北欧神話の死の神ヘルが住まう土地ヘルヘイムへ向かう旅路が描かれている。ストーリーラインは実にシンプルであり、目的もはっきりしている。一見すると定型文のような物語、はっきりと言ってしまえば取るに足らない英雄譚のようにみえる。

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しかし、ゲームの起動と同時に表示される注意書きに「このゲームには精神病の描写が含まれており、一部の類似した経験をした方が不快に思われる可能性があります」とあるように、本作の主人公であるセヌアは重度の精神疾患を患っているという、実にユニークであり独創的、かつ非常にセンシティブな設定が付与されている。その症状はおもに妄想、幻聴、幻視。精神疾患に関して筆者は門外漢でありあくまで一般論ではあるが、その症状から推測するに統合失調症かそれに近い病気であろうと考えられる。仮にセヌアの抱える疾患が統合失調症だとすると、その病気は現代社会においてもそれほど珍しくはない。約100人に一人がかかる精神疾患であり、男性の方が発症者は比較的多いものの、女性がかからない訳ではない。その原因については諸説ありはっきりとはしないが、遺伝的な要因や重度のストレスなどが指摘されている。

セヌアの場合、劇中で母親が同様の症状を持っていたという、原因が遺伝であることを示唆する描写がある。また、ドルイドである父親との生活の中で生じたストレスにより、すでに軽度の症状が発症していたことが見受けられる。さらに、北方民族の生贄にされた恋人の姿を見てしまったことによる強烈な心的外傷後ストレス障害(PTSD)により、症状が重篤化したと考えてよいだろう。開発元はこの設定に深みと説得力を持たせるために、専門家と同様の症例を持つ数名の協力を受け、精神の病に関するしっかりとした監修を施している。いくつかのゲームで描かれているとはいえ、身体の病気にくらべれば精神疾患はまだ腫れ物のようにタブー視されがちだ。そんな心の病気に対して敢えて真摯な眼差しを向ける態度は最大限の賛辞をもって称えられるべきものではあるが、その一方で一つの「ビデオゲーム」としてどうその問題と折り合いをつけているのか、それがビデオゲームである限りにおいて全てに優先される部分はやはりその一点だろう。

ビデオゲームだけでなく全ての創作物におしなべて言えることだが、強い社会性を帯びた作品によくみられる傾向として、「教育性」や「啓蒙性」にこだわってもともとの作品の本質的なテーマ性がいつの間にかすり変わってしまうことが往々にしてある。プレイ前、筆者がもっとも危惧していたのはまさにその点であった。いくら精神病についての学習効果が高かろうと、ゲームとしての完成度が低ければそれは本末転倒でしかない。

しかし、この時点で告白してしまえば、その心配は杞憂であったといえる。本作において「精神疾患」という設定は、確実にそのゲームプレイにすこぶる独創性の高い幻想的な世界観を与えており、主人公セヌアに強烈なインパクトと魅力を与えている。逆に言えば、その設定をなしに『Hellblade』のゲームとしての完成度を語るのが不可能なほど、見事に作品と融合しているといってよい。

 

「精神疾患」という設定が作品にもたらすもの

セヌアという精神疾患を抱えたキャラクターが発症している症状は、大きく分けて「妄想」「幻覚」「幻聴」である。ほとんどのビデオゲームがそうであるように、本作でもプレイヤーは自己の視点を持ちながらキャラクターの経験を追体験するのだが、ユニークなことに本作ではプレイヤーは自己の視点を持ちながら「セヌア」という人格のみせる「妄想」を同時に追体験することになるわけだ。経験と妄想を同時に追体験するということ。客観が明示されていないストーリーラインにおいて、その効果は『Hellblade』の物語そのものが「その世界での現実」なのか「セヌアが見ている妄想なのか」の境界を大きく揺るがし続ける。

当然だが、一般的なゲームをプレイする際、プレイヤーはその世界がフィクションだと理解しながらも、「その世界でのリアルな出来事」を体験しているという本質的な信用をもって作品を楽しむ。ただし、本作においてその信用は許されない。なぜならセヌアは重篤な精神疾患を抱えており、「妄想」の範囲も明示されない。つまりセヌアの物語を追いかけるプレイヤーには、その開始時点どころか最初に提示された前提から全てセヌアの妄想なのではないかという疑問が投げかけられ続けるということだ。ヘルの存在も、ヘルヘイムという場所も、そこへ向かう旅路も、戦う敵も、恋人の魂が縛り付けられているという事実すらも。ゲーム内の全ての対象にその疑念は張り付いたままで、それが剥がれる瞬間は永遠にこない。無論、それらはセヌアにとっては全てが疑いようのない事実である。だがプレイヤーにとっては、疑いようの“ある”事実なのだ。

仮にセヌアに精神疾患という設定がなければ、プレイヤーは無条件にその「ゲーム内の事実」として受け入れられるものが、「妄想」というフィルターによってそれは瞬時に曖昧になる。世界の曖昧さ、ぼやけた境界線、はっきりと見えていて同時に霧に包まれているという一種の浮遊感。それは本作のゲームプレイの根本的なテーマ「自我と世界」「生と死」「虚と実」の間に引かれた線、その境界線の色や形、匂いや場所に対する「疑問」を、プレイヤーにじんわりとではあるが、真綿で首を絞めるが如く粘着質に、執拗に問いかけ続ける。

「幻聴」や「幻視」は両者とも前述の「妄想」と密接不可分の関係ではあるが、作品をすっぽりと飲み込む概念である「妄想」を基礎にした、より現実的な症状として純粋にゲームプレイに組み込まれている。たとえば「幻視」に関して言えば、あらゆる場所に目が現れて自分を見つめるという特徴的な症例がゲーム内で表現されている。(もちろん、この症状が幻視ではなく神話世界の現実である可能性もある)。謎解きのパートでは、一般的に関連性を感じられない部分に意味性を感じるという統合失調症の症例の一つが、風景から対象となる図形を探すといった形でそのまま利用されている。

さらに「幻聴」については、ヘッドホンなどを使用してプレイすると非常によく分かるが、耳元や頭の後ろからほぼプレイ中延々と聞こえてくる。本作は全体的に優れた演出表現とその高い効果を約束できるゲームだが、この「幻聴」はプレイする人によってはかなりの煩わしさを感じる部分であり好みが分かれる部分かもしれない。しかし、逆にプレイする人によっては果てしない没入感を感じさせてくれるギミックでもある。セヌアに聞こえてくる幻聴の多くが悪意ある嘲笑だが、実は時に進む方向をアドバイスしてくれたり、敵が後ろに迫っていることを伝えてくれたり、体力ゲージなどHUDの一切無いゲームプレイの中で戦闘中の体力低下を教えてくれたりする存在でもある。精神疾患の症例を、絶妙なバランス感覚でゲームプレイに利用している。

さらに特筆すべき本作におけるもっともユニークで優れた試みとして、物語の進行を説明する台詞の多くはセヌアのモノローグではなく、擬人化された幻聴の主が担っているという点がある。つまり、セヌアに聞こえてくる声一つ一つには人格が存在しており、セヌアの旅にずっとよりそっているのだ。セヌアの周りには見えない妖精のような存在が数名おり、実際に声を発しているわけだ。厳密に言えばプレイヤーもその幻聴の主の一人という視点で、その背中越しにセヌアが見る世界を感じている。この本来主体性がない精神病の症状である「幻聴」に、主体性と独自の人格を与えることによって、「幻聴」がもしかしたら「幻」ではないかもしれないという可能性が示唆される。この方法によってプレイヤーは、本来の世界を「精神疾患」というフィルターで妄想にすげかえた世界観が、まるでオセロゲームのようにさらににひっくり返されるという体験をする。ただでさえ虚実を境界がぼやけた世界をさらに混沌とさせ、簡単にセヌアの旅路を「妄想の産物」とは呼ばせない。

孤独な旅路の道のりの中、セヌアに聞こえてくる声は「幻聴」の主だけではなく、死んだ恋人の声、ドルイドである父、精神疾患を病んだ人間が入れられる森でセヌアが出会った狂人「ドゥルース」、同病であった母やセヌア自身を見つめている「セヌア」の声など多い。だが、彼らが発する言葉一つ一つからは、正確な意味を汲み取ることができない。テキストはいかにも意味深長な文章になっているものの、それらをよく読むと文章そのものにはほとんど意味がなく、脈絡と対象が存在しない場合がほとんどだ。おそらく製作者は、精神疾患罹患者の発する文章の傾向を参考に、意図してそこに分かりやすい意味を与えなかったのだろうと推測される。しかし、さらによく読み込むと膨大で無意味なテキストの所々に、本作のテーマ性が隠されていることに気づくだろう。脈絡のないテキスト中に隠された意外なほど直截で明確なメッセージ性を文脈から探るという知的な遊び方を提示しているのも、『Hellblade』の持つ特徴である。

このように、本作品において「精神疾患」という設定は単に「主人公の精神が病んでいる」というキャラクター付けに利用されているということだけでなく、だからと言って単に「啓蒙的」でも「教育的」と使用されているわけでもない。プレイヤーにその独自の世界観を自然に体験させながら、自然な形でその設定を「太い軸」にしてゲームの設計が練られている。極めて高次元に「ビデオゲーム」と「精神疾患」が融合している稀有で貴重なものだ。ゲーム体験として『Hellblade』がもたらす感覚は『Hellblade』でしか経験することができない。その良し悪しに関する個々人の感じ方を考慮の外に置けば、『Hellblade』は唯一であり無二であることだけは断言しても差し支えないだろう。

 

ゲーム史上稀にみる「醜く」「美しい」主人公

ゲームプレイ中の判定の曖昧さ、すり抜けバグなど、オブジェクト関連多少の脆弱さを感じさせるが、ゲーム画面を絵としてとらえた場合、本作の細緻で美しく表現されたグラフィックは没入感を多分に促進させている。また敵の種類こそ少ないものの、戦闘のシステムは実によく練られている。特に戦闘に関しては他のゲームにも転用可能なほど完成されていて、前述したようにHUDがないゲームプレイでも直感的にプレイできるように工夫されている。「幻聴」は敵の位置、自分の体力、あるいは敵の体力すら聴覚的に認識するためのデバイスとして見事に機能しているし、強攻撃以外は全て対処することができるジャストガードでのパリィの受付は比較的易しく設定されているにも関わらず、決まった時の爽快感はかなり高い。ステップでの回避の無敵時間は長く、全ての行動を回避でキャンセルする事ができるため、パリィを狙ったガードのあとに隙ができたり攻撃中に横から別の攻撃を受けた状況でも、即座にステップへと移行することもできる。地味な部分ではあるが、あらゆる意味でストレスフリーな戦闘は積極的に評価されるべき部分である。

ほかにも、ケルト人に伝わる人頭崇拝という文化に従い死んだ恋人の頭部を持ち歩くセヌアなどからは、丁寧に積み上げた文化的考証の痕跡をみることができる。また、オルレアンの聖女の例を挙げるまでもなく、古今英雄譚のモチーフとして取り上げられやすい「人ならざるものの声を聴く」という現象に対するアプローチとしても、大変に興味深いものだ。

しかし、本作全体で突出して優れた部分は、やはり主人公セヌアのキャラクター造形の魅力に尽きる。精神疾患を持った主人公の物語の追体験は、一見非常に異様なものに感じられるかもしれないが、その精神世界を共有しているプレイヤーから見ればそれは驚くほどに理にかなっており、異常性を感じられないものだ。つまり、健常者では奇矯な行動に走り奇妙な世界の捉え方をしているように見える精神疾患罹患者の言動のパターンには、その人の見えている世界の中では完全に意味がある行動であるということだ。セヌアにとっても同様に、その行動原理や感情にある種の整合性は確実に存在する。そこに異常さを見出せなくなった時にプレイヤーが感じるのは、彼女の持つ悲しみや苦しみ、頑なさや脆さの「純粋性」にほかならない。

ルーマニアの思想家エミール・シオランによる「病者」の定義そのままに、彼女の感情は外的世界との関係性によって形作られるものではなく、「自己」でありながら「世界」そのものとなる。彼女は彼女の悲劇と一体になり、悲劇を悲劇的に感じる主体そのものになる。それは発露に他者の存在を必要としない完全かつ純粋な感情の「塊」であり、それ故に瞬間瞬間に見せる彼女の「醜さ」と、垣間見える慈母の如き「美しさ」は、ストレートにそれを追体験しているプレイヤーの魂を激しく揺さぶってくる。彼女のその圧倒的存在感と、生々しさと禍々しさ、清廉さと美しさ、その儚さの混在と両立は、ビデオゲーム史上に稀に見るほどの出色の輝きを放っている。

 

結びにかえて

繰り返しになるが、『Hellblade』は一言でいえば「境界」の物語だ。主人公セヌアの自己と他者、転生の概念を持つケルト文化、北欧神話の終末思想、生と死、そして同じようにプレイヤーの認識にある様々な「境界線」。その境界線は誰が引いたのか、正しい境界線はどこにあるのか、そしてそもそも対象と対象の間に境界があるという「常識」は正しいのか。精神疾患という「状態」と健常という「状態」の間の違いは取るに足りないのか、それとも足りるのか。煎じ詰めれば世界のありとあらゆる「境界線」に対する問いかけが、本作には含まれている。

主人公の恋人ディロンの台詞に、「セヌアには他の人の見えない世界がみえる。それは彼女にしかない優れた才能だ」という主旨のものがある。開発者の代弁だと考えていいだろう。開発者は恐らく、精神疾患は病気であるという常識的な認識を持ちながら、同時にその疾患がもたらすものに対するクリエイティブな憧憬を抱いているように思える。それほどまでに、本作で体験できる「精神疾患」の世界には深い沼のような抗しがたい魅力がある。プレイヤーにそう感じさせる何かがあるということは、冷静に考えれば恐怖でもあるのだが。ただ開発者の「精神疾患」というものに対する真摯かつ誠実な姿勢の根柢には、自分には見えない世界を見ている人間に対する暖かな眼差しがある。だからこそ、誤解を生じがちで扱いの難しいテーマに敢えて真正面から取り組んで、この長く語り継がれるだろう作品を見事に完成させた。直言すれば、どう評価を下すにせよプレイ可能な環境にあって本作をプレイしないというのは勧めることができない。

このゲームをプレイした後、かつて自身と関わりのあった「妖精の声がきこえる」人の事を理解できたか、あるいは今なら疎遠にならずに済むかといえば、それは無理というものだ。人と人の間の「相互理解」など所詮不可解の質をほんの少し変えるくらいなものでしかないし、それで分かった顔ができるほど厚顔でもない。結局、本当は永遠に靄の中に閉ざされているし、それはそれでいいのだろう。

ただ、それでもなお、セヌアの旅路は「多様性と相互理解」という、便利だが薄ぼんやりとして曖昧な感触の言葉に一筋の強い光を投げかけている。

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