AUTOMATON vs. 松山洋 サイバーコネクトツーのルーツと信念 (中編)

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前編から引き続き、サイバーコネクトツー松山洋氏へのインタビューです。
 


――そのときに、すでに『.hack』の企画の話は入っていたのですか?

入っていました。

――なるほど。デベロッパーとしての個性とか強さとかを持たなきゃだめだと思うにいたったのに、当時ほかのデベロッパーに影響されたということは?

なかったです。だいぶこの業界の風習も変わったから、いまは整備されてきてるとは思うんですけど。たとえば当時だと引き抜き防止のために「開発者の本名をエンドロールなどに出さない」っていうのもありました。現在も多少ありますけど、まず不自然だと思ったところです。日本って首都が東京ですから、東京にたくさんの会社の本社が集まっているのは、もちろんそのとおりだと思ってたんです。そして、ゲームデベロッパーの多くがみんな東京にあったんですよ。東京って、人口密度も高すぎるし、家賃も高いし、物価も高い。みんな会社から遠いところに住まなきゃいけないし、通勤時間が一時間半。なにか秘密があるなと思って。「なんで東京にゲーム会社があるんだ?」と思って、色々まわって調べたんです。そしたら驚くほどに秘密がなかった。

なんとなく東京、だったんです。パブリッシャー、PRとかマーケティング、営業っていう観点からいうと、「広告代理店や出版社やテレビ局の多くは東京にありますから彼らは東京にいるべき」なんです。現場で製作しているクリエイターが東京にいる理由なんかなんにもなかったんですね。

――スタジオというレイヤーだと地方でもありですからね。

好ましいことです。そのほうが集中してモノが創れますから。

――海外もそういう流れがありますね。

福岡で創るときにも、東京の物価が高すぎるというのと、東京じゃなきゃいけない理由がないということでした。東京の打ち合わせは必要な誰かが行ってそれを持ち帰ればいいのです。たとえば東京に100人いたとして、100人でミーティングしてないじゃないですか。結局誰かが代表として出席して現場にフィードバックするわけじゃないですか。どこにいたって一緒ですから。なので、福岡にいることをメリットに、武器にしなきゃいけないと思っています。

ゲームの会社を作ってみて、ゲーム業界が見えてきて、色々なゲーム会社の人間と交流をしてきて、ゲーム業界の色々な人に話を聞いてみて感じたことがあります。それは、ゲーム業界にかぎらずエンタメ系、出版社、アニメ会社の多くが朝出社しないということ。夜遅くまでやってるから。スタートが遅いんだからそりゃそうでしょ、と思います。最初は本当に意味が理解できなくてですね。夜遅くまでやってるから朝来れないのか、朝来れないから夜までやってるのか。

本当にニワトリと卵で、結局、そういう人に依存しているから仕方がないね、っていうことでそういうルールになってしまいます。では、朝起きれない人がこの業界を目指してしまうのか、この業界にいる人が朝起きれなくなっちゃうのか。これももうわからないです。

はっきりしていることは、最初の数年間で私自身が身を持って体験した、不眠不休です。あきらかに効率が落ちるんですよ。馬や牛でも疲れますよ。われわれは地球人であってサイヤ人じゃないですから。1年や2年かかるゲーム製作で。コンスタントに効率よく力を発揮し続けるのが仕事なので。

ほかの会社ができていない、ゲーム業界みんながそうでもそれがいいとはもちろん思えないし、効率が悪いです。

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――あたらしいやりかたがありうる?

はい。当時のゲーム会社の多くが、たとえばゲームを1年で創るとするじゃないですか。そうするとプロジェクトが始まったばかりと後半って、働いている時間が異常に違うじゃないですか。

――最初はのんびりとしていて、指数関数的に忙しくなるんですね。

仕様が決まってないからまだやることがないなどの理由で時間を持て余していることが多いんですね。なので、そういう時間の使い方からルールを全部変えようと思いました。当時スタッフは開発者しかいなくて、経理も総務も人事もいなかったので、私ひとりでやってたんですけど、社内ルールを全部作りました。今ももちろん残ってますよそれは。昔以上にいまは法律も変わったのでたくさんのルールが会社にもできちゃいましたけど。最初に作ったのはいまも徹底して守らせているんですけど、まずあいさつからでした。18年前にゲーム業界に入って思ったのが、この業界の人たちは誰もまともに「おはようございます」「おつかれさまです」のあいさつができないということです。

――至極簡単なものですね。

そうです。基本的なことじゃないですか。仕事以前だと思うんですが、それがとにかくできていなかったんです。

たとえば当時のバンダイのプロデューサーの方がやってきて、「おつかれさま、差し入れもってきたよー」と言っても、誰も振り向かない、返事をしない。「ありがとうございます」が言えないんです。直接肩をたたいて、「どう? がんばってる?」と言われるとモニター見ながらコクリとうなずくだけだったり。

まあ、「ゲーム業界だしね」って最初は思ったんですけど。「違う、人として間違っている」と思いました。そういったところから全部ルールを作りましたね。爪を切る、下駄をはかない。相手に不快感を与えるようなファッションをしない。そういったものから、朝9時に出社ということまで徹底させましたね。まあ、大反対にあいましたよ。

もう、「9時に出社しないといけない理由がわからない、説明してくれ。納得したらいくらでもするよ。でも朝9時は横暴だ。9時に仕事してる会社なんてどこにもないよ!」と。そんなことないんです。任天堂さんはもっと早いです。でも任天堂さん以外はたしかにそうで、当時のゲーム業界はほとんど午前中仕事してなかったです。

なので当時のスタッフには「"ルールを決める"って言ってるんだから、そこは言うことを聞いてくれ」と話しました。すると「いや納得できない、説明してくれ」と返ってきて、そのときに言ったのは「大人がなんでもかんでも理由を説明すると思わないでくれ、世の中はそういうふうにできてない」と。

もちろん事情や狙いやビジョンがあってのことだと思うんですけど、それを一から十まで、学校じゃないんだから、いちいち理由は説明しないですし、それがわからない・納得いかないっていうんだったら、一緒にやっていくのは難しいです。会社の代表がこうだって言ったらこうだから。私は勝つためにそうしています。

なんでなんだろうな、っていうのは自分たちで考えてほしいです。

 

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――逆にそれに見合った結果を出してくれというのは言われなかったですか?

だから、自分たちが創っている会社のタイトル、そして会社の実績で私は証明してみせると話しました。一から十まで全部細かくルールを作って、やりかたもがちんと変えて。

――そういうふうにリーダーシップをとったり、組織を作るのは得手でいらっしゃったのでしょうか?

得意ではないです。

――やらなきゃいけないからやってる?

ただ、子どものときから、性格的には、学級委員長をやるタイプでした。それに起因していると思います。

――さきほどの漫研の話でも編集長だった?

はい。なので学生時代は9年間くらいは学級委員長やってました。

小学校4、5、6、中学高校。小学校3 年のときに気づいたんです。たぶんこれ小学校も中学校も高校も一緒だと思うんです。学生って先生の言うこと聞かないじゃないですか。そして、みんな言ってることばらばらじゃないですか。まあ、子どもだからですが、私は早くおうちに帰って、『魔神英雄伝ワタル』を観たいわけですよ。当時ビデオデッキとかなかったから。

九州では「帰りの会」っていってたんですけど。「帰りの会」が早く終わってくれないと走っても間に合わないんです。早く終わってほしいのに、まずクラスがまとまらない、なかなか席に座らないんです。

もう、それが迷惑なんだ、と思いまして。あ、これは俺がやったほうが早い、と気づきました。なので学級委員長をやらせてください、と立候補して。学級委員長っていう権限で、クラスをとにかくまとめて。そうでないと良いことなんてないんですよ。そうやってふざけてやっているうちに帰るの遅くなるし、先生に対しても心象が悪くなるし、それで得られるメリットなんにもないんです。で、『ワタル』は観れなくなるし。

――小学校3年生とは、かなり早い段階でお気づきになられましたね。

 

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――すこし話題を変えます。2000年代前半から中盤まで、基本的には『.hack』シリーズをメインとして開発していらっしゃって。そのあとは『ナルティメット』シリーズという感じで。

当時を知るレベルファイブの日野さんは、私が代表になる前から私のことをご存知なんですね。

私がサイバーコネクトを作ったときに当時福岡の老舗のシステムソフトとリバーヒルソフトにもちろんご挨拶にうかがいました。われわれは後輩ですから。なかにいらっしゃったのが、リバーヒルソフトでディレクターを務めていた日野さん。そのあと日野さんはレベルファイブで独立されましたけれども。なので「当時の松山さんと今の松山さんて中身が変わったくらい人が変わったよね」と言われます。「サイバーコネクトからサイバーコネクトツーになってからの行動力。もう別人だよね」みたいな事はいまだに言われていますね。

それまでいちグラフィックデザイナーとして、そして当時は社長がいたので、社長のもとで働くいち従業員としてやっていましたが、サイバーコネクトツーになってからは、自分がディレクターであるとか、会社の代表であるとか、宣伝広告塔にならなければいけませんでした。もちろん自分は絵を描くのが好きなのですけれども、絵を描くアーティストならばほかにいるし、彼らにだってできます。だけど会社の代表は私しかできません。私がやらなきゃいけないと、自分にしかできないことをやるって決めて、走り始めたのがそこからですね。そこから『.hack』シリーズを創って『ナルティメット』シリーズを創ってきました。会社も当時、『.hack//感染拡大 Vol.1~絶対包囲 Vol.4』を創ったときはまだ18名しか社員がいなかったんです。ですのでPS2の全4巻構成のRPG、アニメとコミックと連動の作品として、完成するまで開発に3年半かかったんですよ。

 

――プロジェクト自体もすごく大きいですよね。業界的にもメディアミックスというあたらしい試みでした。

そうですね。我々の情熱を当時のバンダイさん(現・バンダイナムコゲームス)が買ってくれたのだと思います。そうしないと勝てないと思いました。誰もやっていないことをやらなければいけませんでしたし。

 

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――急に人が変わったようになったというのは、自分のなかに使命感などがあったのですか?

それは最初の4年間ですね。

私の目から見ても、いまもいる当時の創設メンバーを中心に、彼らってめちゃめちゃ能力が高いんです。才能もあるし努力もするんですけど……負ければなにも残らないんですね。結局、一緒に汗を流し血を流して作ったタイトルが売れなかったら、それは人から失敗といわれてしまうんです。これは、この業界の残酷なところだと思うんですけど。どんな思いで創ろうが、売れるものは売れるし売れないものは売れない、結果がすべてです。なので、面白そうで面白くて売れるもの。この3つの条件を絶対に達成するのが商品です。でないと、ものを創っている彼らが浮かばれないです。

――周りのクリエイターを世に見せて評価してもらいたいという想いが強かったのでしょうか?

そうですね。あと、なんでしょう、サイバーコネクトツーになってからやったことの一つに、全スタッフに名刺を作ったことがあります。いまもスマホの世界やソーシャルの世界はそういうところがありますが、エンドロールにクリエイターの本名を書いていませんでした。なぜかというと引き抜きがあるからです。いまだに大手のメーカーさんのいくつかはそうですし、インタビューは基本的にプロデューサークラスしか出さない会社もあります。現場の人間は出さないというのは、守るための戦いですよね。

私はそれじゃ勝てないと思いました。勝つための戦いにしなきゃいけないから。守るための戦いではありません。スタッフ全員に名刺を渡して、自分の会社の看板を胸をはって親や当時の恩師やたまの飲み会で同級生と会ったときに、社会人として今こういう会社に勤めていると、胸をはって渡せるようになってほしいです。そして、サイバーコネクトツーの人間である、かっちょいいね、と思ってもらえる会社にしたい。スタッフにもそれは胸をはってほしいなと思っています。その結果、引き抜きにあおうがなんだろうが、「そっちのほうが条件いいからそっちにいきます」っていう人間は、いりません。

――公式ブログでも、結構社員やクリエイターの方の活躍が見えるようにしていらっしゃいますよね。それは広報的な側面でも社員を引き立てたいと?

そうですね。これは私の子どものころからの原体験です。たとえば少年ジャンプとかで好きな作品がありまして、単行本の巻末とかに、その作家先生のコメントで日常とかが書いてあるのがとても好きだったんです。こんな面白い作品を作っている人になりたい。じゃあどうすればなれるんだろう。

これを描いている人はどんな大人なんだろう。そういうものを見せてほしかったんです。だってあこがれているんですから。なので、自分自身がクリエイターになったときには、子どもたちがうちの創った作品が好き・サイバーコネクトツーが好きだと思ってくれたら「こういう人間が創ってるんだよ」っていうのを絶対に見せてあげようと。それはもう私自身が望んでいたことなので。今もそれはやっています。

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――今後は現場のかた、たとえばアーティストのかたへのインタビューも可能ですか?

いくらでも。

 

――では、サイバーコネクトツーになってから、これは心に残る作品や自信作というものはどれにあたりますか?

『.hack』です[即答]

――やはり『.hack』は大きかった?

はい。

 

――それは大きなプロジェクトに参加したということや、オリジナルの世界観を創りこむのに苦労したという部分ですか?

そうですね。ゲームを創るだけではなかったです。テレビアニメやコミックなど数多くの並行して走るプロジェクトをそれぞれの業界を超えて横断的に、たばねることはとても難しいんですよ。

アニメ、ゲーム、コミックとそれぞれのメディアって近しいようで文化が違うし歴史も違いますから、横の連携をとることが非常に難しいんです。

――全部まとめるために、各制作現場を管轄するためにバンダイナムコゲームスの方が管理するみたいな感じになるのですか。

そうです。結局誰かがやらないと、作品がまとまらずに普通のプロジェクトになってしまいます。私か、当時バンダイ(現・バンダイナムコゲームス)のプロデューサーの内山大輔さんと二人でとにかくやりました。たとえば、ゲーム会社が創った設定をアニメにも生かしてほしいのですが、アニメ会社はアニメ会社で自分たちでべつのアニメの設定をつくってしまいます。そうやって別々にお金を使って効率の悪い仕事になってしまうんです。わざわざ「設定ありますか」と問い合わせる発想や習慣がないんですね。なので、われわれがゲームを創るなかで生まれた設定は、「ゲームの設定があるので、よかったら観てみます?」みたいな形で、用もないのにおうかがいしてお話しします。「なにか困ってることないですか」とか、そういう話をして、そこで出た情報を今度は出版社のほうに行って情報共有したりですとか。逆に出版社からアニメ会社の方へ「漫画の方は今こんなことになっていますよ」と情報を提供したりしていました。

このような地道な現場レベルのやりとりをしていました。いまもそうですが、そこまでしないと質の高い連動は難しいです。ほうっておくと川が上から下に流れるだけになってしまいます。

 


後編へ続きます(8月8日公開予定)。

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