チェコのデベロッパーが自社作品のレビューに高評価をつけるよう海外メディアに強要。問われるメディアの姿勢

 

チェコ共和国のインディーデベロッパーBadFly Interactive(以下、BadFly)が、自社タイトルのレビューに好評価をつけるようゲームメディアに強要していたことがわかった。告発したのはカナダのゲームメディアCOGconnectedである。

BadFlyは2016年5月にFPSタイトル『Dead Effect 2』をPC向けに発売、今年1月17日に同作のPlayStation 4/Xbox One版を海外でリリースしたスタジオだ。これまでにリリースした作品は『Dead Effect 2』と前作『Dead Effect』のみ。決して知名度の高いスタジオではなく、メディア側には今回問題となった要求を呑むメリットも拒むデメリットもほとんどない。告発記事のネタになるのは時間の問題であっただろう。

 

BadFlyによる無謀な要求

事の発端は、BadFlyのCEOであるLubomír Dykast氏が『Dead Effect 2』のレビュー用コピーを各種ゲームメディアにオファーしたことから始まる。その中でCOGconnectedが受け取りを希望する旨を返信し、後日Dykast氏からレビュー用コピーが送付された。メール文面には「我々は11人の小さなスタジオですが、良いシューターをつくろうと努力しました。この事実を踏まえてレビューして頂けると幸いです」という言葉が添えられていた。

ここまでは問題なかったのだが、COGconnectedがメール文面の公開に踏み切った理由は締めの言葉にある。「もしあなた方が『Dead Effect 2』のレビューまたはプレビューにてネガティブな評価を下すのであれば、今後の弊社タイトルについてはレビュー用コピーを送りません」。この無謀な脅し文句によりCOGconnectedは『Dead Effect 2』のレビュー執筆を断り、代わりに告発記事を掲載した。

COGconnectedの記事に反応したEurogamerは、告発記事の執筆者であるShawn Petraschuk氏にコンタクトを取り、Dykast氏からのメールを入手。確かな情報であることを確認した。Eurogamerによると、記事公開後、Dykast氏はPetraschuk氏にメールを送信し「やっちまったよ(We screwed it)」と反省の意を伝えたという。Dykast氏はBadFlyに英語のネイティブスピーカーがいないことを強調した上で「我々が小さなインディーデベロッパーであることを理解してほしかった。メールで伝えたかったメッセージはその一点だけです」と伝えている。BadFlyは報道後に姿勢を改め、レビューが低評価であっても理由がしっかりしており、無条件にゲームを貶す内容でなければ、レビュー用コピーの配布を止めないと表明した。

告発記事を担当したPetraschuk氏は「我々も人々の人生を台無しにしたくて記事を書いているわけではありません。ただ、こうしたコミュニケーションの取り方や最後通告はビジネスとして好ましくない。これはしっかりと報道する必要があると感じたのです」とEurogamerに答えている。

BadFlyのケースから浮かび上がるのは、情報を握るデベロッパー/パブリッシャーと受け手であるゲームメディアの思惑のズレである。レビューを「広告」として機能させたい前者と、「報道」「批評」としてレビューを扱い「消費者への情報提供」と「ゲームの文化的価値の向上」に貢献しようとする後者のせめぎ合いだ。Petraschuk氏においては迷いがなかったが、デベロッパー/パブリッシャーから冷遇される可能性というのは、広告/報道/批評のすべてを同時にこなそうとするゲームメディアにとって、ときとしてジレンマの種ともなりうる。

実際にデベロッパー/パブリッシャーからレビュー用コピーの配布を拒まれた事例としてはKotakuが有名である。彼らはBethesda SoftworksおよびUbisoftのブラックリストに入っている旨を「ゲームジャーナリズムの対価」という2015年の記事にて公表している。少なくとも2015年時点では、レビュー用コピーに限らず、記事用のインタビューやコメントを求めても返答が得られない状況であったという。

ブラックリスト入りした結果、Kotakuは『Fallout 4』のレビュー掲載について他社から大きく遅れをとった
ブラックリスト入りした結果、Kotakuは『Fallout 4』のレビュー掲載について他社から大きく遅れをとった

Kotakuの場合、ブラックリスト入りした理由は(少なくとも彼らが判断するには)レビューではなくリーク情報にある。Kotakuの主張は、リーク情報も報道の一部であり、自らのジャーナリズムを重んじるのであればデベロッパーの意向を優先する必要はないというものだ。記事の中でKotakuの編集長Stephen Totilo氏は「我々は読者のために存在するのであって、ゲーム会社のために存在しているのではない」と記している。はたしてリーク情報が「報道」であるのかどうかはさておき、「報道」としてのゲームメディアを強く主張する姿勢は先述のPetraschuk氏とも共通している。

 

レビューにどれほどの価値があるのか

1人のゲームライターとして筆者が考えるに、それまで「広告」として扱ってきた作品だとしても、レビューだけは「報道」と「批評」に徹することが望ましい。デベロッパー/パブリッシャーのPRが伝えない情報を正しく「報道」する購入判断材料としてのレビューと、作品に新しい光を与え文化的価値を高めようとする「批評」としてのレビュー。これらを「広告」としての立場と切り離さなければ、企業と消費者両方の顔色を窺いながら、結果として消費者の信頼を失うようなレビューが出来上がる。

なぜ判断材料となるレビューが必要なのかというと、デベロッパー/パブリッシャーは自社にとってプラスとなる情報だけを提示するからだ。それはPRの仕事としては正しいが、その情報に誤りがないか、彼らが伝えない「プラスではない」部分は何なのかは消費者には伝わらない。これらを洗い出した上で作品を評価するのがレビュアーとしてのメディアの役割である。レビューに限り、デベロッパー/パブリッシャーとメディアは完全な協調関係にはいられない。デベロッパー/パブリッシャーの意図を汲むとただの広告になってしまう。意図は汲まないが、レビュー用のコピーは渡してほしい。このドライな協調関係こそが理想的なのである。

なぜリリース前にレビュー用コピーが欲しいのかというと、判断材料としてのレビューがもっとも必要とされるのはリリース日前後の数日間であるからだ。よってリリース前にプレイできる環境にないと需要に応えるのは難しい。デベロッパー/パブリッシャーからしても、リリース当日までに好印象のレビューが揃えばプロモーションとしてプラスに働く。だからこそ「意図は汲まないが、レビュー用のコピーは渡して欲しい」という要求を飲んでいる。強制力はなく、あくまで自主的な協力である。低評価を下す可能性があるメディアにもコピーを渡すというのはリスキーであり、それでもなおレビューされることに価値があると判断されない限り関係を維持することは難しい。レビューされることに価値があるとデベロッパー/パブリッシャーを説得するだけのコンテンツと消費者への影響力を生み出せるかは各メディアにかかっている。

残念ながら、それだけの価値を生み出せていないと判断されつつあるのが現状である。Bethesda SoftworksやUbisoftが一部タイトルでレビュー用コピーの事前配布を控えているのは、事前レビューの有無が売上に影響しない、あるいは高評価のレビューが公開されるメリットよりも、リリース前に低評価のレビューが公開されるリスクの方を重く見積もっているからだろう。両社とも知名度と実績があるからこそ強気のマーケティングに出られるわけだが、今後は彼らに追従するデベロッパー/パブリッシャーが増えてもおかしくはない。

Bethesdaは『Dishonored 2』よりレビュー用コピーの事前配布を止めている
Bethesdaは『Dishonored 2』よりレビュー用コピーの事前配布を止めている

ゲームメディア側の理論としては、発売日前にレビューが掲載されなくなることで損を被るのは消費者である。Bethesda Softworksが強気のマーケティング手法に出た結果として『Dishonored 2』のPC版が最適化不足であるという問題がリリース後になって発覚した。プレイヤーはまともにプレイできない可能性のあるゲームを、事前に知り得ることなく購入することになったというわけだ。だがこの場合も消費者はレビュアーの評価を待てば良かっただけであって、仮に消費者が「事前に情報を開示しないのであれば買い控える」という手段に出れば、そしてその結果として累計売上に影響するのであれば、デベロッパーも考えを改めただろう。Bethesda Softworksが姿勢を崩していないということは、そうはなっていないということだ。要するに判断材料としてのレビューはあまりにも影響力がなさすぎる。

 

1人3役であり続けること

ゲームメディアの影響力は限られている。限られてはいるが、消費者にとって有益な情報を少しでも多く提供するという目的は揺らぎないものである。業界内の反・消費者主義的な行いに警鐘を鳴らし、自らの立ち位置に自覚的であろうとするのも無意味ではない。BadFlyの一件がニュースとなった理由は、「強要」「ブラックリスト」といった訴求力の強いワードが含まれていたことも一因だが、それ以上にゲームメディアとしての姿勢を自己確認し表明するのに適した事象であったことも確かだろう。「広告」としての記事を発信し続ける中で読者に忘れられかねない「報道」としての自身を打ち出すために。

「報道」としてのゲームメディアがあることを読者に理解してもらい、信頼してもらえなければ、判断材料としてのレビューはその力を失い続ける。1人3役を務めるゲームメディアは、この土台の部分でいまだ戦い続けているのだ。

なお本稿では判断材料としての、「報道」の一部としてのレビューを扱ってきたが、ゲームの理解を深めるための「批評」としてのレビューに関してはタイトルのリリース後に公開しても効果は薄れない。前者のような即時性は求められず、むしろプレイヤーが一通り遊び終えた後の方が居場所を見つけやすい。仮に判断材料としてのレビューが必要とされないのであれば、ゲームの理解を深めるためのレビューに比重が寄せられていく可能性はあるだろう。


元・日本版AUTOMATON編集者、英語版AUTOMATON(AUTOMATON WEST)責任者(~2023年5月まで)