オデッセイ生みだした家庭用ビデオゲームの父 92歳で死去

 

テレビに端子を接続し、ハードウェアを起動すると、スクリーンにビデオゲームの映像が映しだされる。この現代に続くビデオゲームの風景を生みだしたRalph H. Bare氏(ラルフ・ベア氏)が、12月6日に死去した。92歳だった。ワシントンポストとゲーム業界メディアGamasutraが報じている。Bare氏は世界初の家庭用ゲーム機「Odyssey(オデッセイ)」を生みだした人物だ。

 


ビデオゲームの父、この世を去る

 

世界初のゲーム機Odyssey
世界初のゲーム機Odyssey

Bare氏はニューハンプシャー州マンチェスターの自宅で死去した。息子のMark氏がワシントンポストに明らかにした。Gamasutraも関係者筋から確認を取っている。どちらのメディアに対しても、死因や葬儀などの詳細は伏せられた。Bear氏は2006年に妻のDena Whinston氏と死別している。3人の子供と4人の孫がいた。

Bare氏は1922年、ドイツのユダヤ人家族のもとに生まれた。第二次世界大戦中にはナチスの手から逃れるため、アメリカへ家族と共に脱出する。ドイツでユダヤ人に対して起きた大暴動「水晶の夜」が発生する2か月前のことだったという。この際にBear氏は名前を変えており、同氏にはHeinrich(ハインリッヒ)とHenry(ヘンリー)、2つのミドルネームが存在する。

成長したBare氏は、アメリカでエレクトロニクス方面のエンジニアとして働くようになる。医療器具などの開発に携わったのち、軍事企業Sanders Associatesに就職する。同社に勤務するかたわら、1966年にBare氏は「テレビ画面でゲームをプレイする」というアイディアを思いついた。1960年代はビデオゲーム黎明期。ゲーム機といえば、専用ディスプレイが搭載されたコンソールが主流である時代だった。1967年から1969年に、Bare氏は数名のチームで試作機を開発し、プロトタイプ機「Brown Box」を完成させる。木目調のガムテープで補強していたため、この名がついたという。

世界初のローカルマルチプレイヤー対戦、マルチプログラムに対応したビデオゲームシステム「Brown Box」。このライセンスを電子機器メーカーMagnavoxが取得し、1972年に世界初の家庭用ビデオゲーム機「Odyssey」を発売した。残念ながら、「Odyssey」やMagnavoxがゲーム業界の覇権を握ることはなかった。しかし、Odysseyの『テーブルテニス』を元にAtariが『Pong』を開発し、商業的に大成功を収める。両社はのちに裁判沙汰となり、AtariがMagnavoxに和解金を支払うこととなった。

1977年に同社からAtari 2600が発売され、1983年には任天堂からファミリーコンピューターが発売される。Atari 2600やファミコンをPS4やXbox One、Wii Uの"祖先"とするなら、Odysseyは家庭用ビデオゲーム機の歴史における"アダムとイブ"と呼べるのではないだろうか。

 


光線銃の父、周辺機器の父

Brown BoxとLightgun
Brown BoxとLightgun

またBare氏は、ゲーム機向け周辺機器の父、ガンコントローラーの父でもある。「Brown Box」の『Target Practice』をプレイするためのコントローラーとして、「Lightgun(光線銃)」を開発した。Odysseyでは、拡張機器&ゲーム「Shooting Gallery」が発売されている。

2006年と2008年のゲーム開発者の祭典GDCにて、Bare氏はゲーム業界に貢献した偉人へ贈られるPioneer Awardを受賞した。2006年には当時の大統領ジョージ W. ブッシュより、技術的に貢献した人物に贈られるアメリカ国家技術賞も授与されている。海外では多くの大手ゲームメディアが今回のニュースを取りあげ、家庭用ビデオゲームの父の死を悼んでいる。現代の家庭用ビデオゲームのスタイルを産みだした、Bare氏の功績ははかりしれない。

 


初代PlayStationやドリームキャスト時代の野心的な作品、2000年代後半の国内フリーゲーム文化に精神を支配されている巨漢ゲーマー。最近はインディーゲームのカタログを眺めたり遊んだりしながら1人ニヤニヤ。ホラージャンルやグロテスクかつ奇妙な表現の作品も好きだが、ノミの心臓なので現実世界の心霊現象には弱い。とにかく心がトキメイたものを追っていくスタイル。